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2017.12.04  取材・文/山下久猛 撮影/山本仁志(フォトスタジオヒラオカ)

カンボジアでの医療支援のきっかけ

──カンボジアに初めて行ったのはいつ頃で、どんなきっかけだったのですか?

岩田雅裕-近影1

2000年6月、33歳の時で、当時は広島の総合病院に口腔外科部長として勤務していました。最初のきっかけは、カンボジアにしょっちゅう通って撮影していたカメラマンの友人から誘われたことです。というのも、実は僕はそれ以前、1997年から中国の湖南省に医療支援に通っていたんですよ。当時の中国はまだ発展してなくて医療も遅れていたので、現地で手術をしたり大学で講義していたんです。中国は通い始めて今年(2017年)で20年になりますが、今も年に1回は必ず行っています。当時は有給を使って1年に1回行く程度の細々とした活動でしたが。それを友人は知っていたので、カンボジアは中国なんて比べ物にならないくらい医療が遅れていて、その医療さえも受けられない子どもがたくさんいるから1回見に行かないかと声をかけられたのが最初のきっかけです。

最初は正直、まあ誘われたから1回くらい現場を見に行ってみようか、ついでにアンコールワットでも見ようか、というくらいの軽い気持ちでした。だから最初からカンボジアで困っている人を助けるんだという高いモチベーションで行ったわけでもないし、まさかこれだけ長くカンボジアでの医療を続けることになるなんて全然思っていませんでした。


──実際に行ってみてどうでしたか?

衝撃的でしたね。こんな何にもないところで治療しているのかと。カンボジアではベッドも足りない、検査機器もない、医療器具もない、医者もいない、でも患者さんはあふれかえっているという状況でした。病院があるのはまだいい方で、野外や、とても医療施設とは呼べない建物、例えば学校の教室の机の上で診察が行われることも普通でした。カンボジアは世界の医療最貧国の1つで、これまでそんな劣悪な医療現場は見たことがなかったので衝撃を受けたわけです。

当時から中国に通っていたといっても、カンボジアに比べれば全然ましでした。湖南省も田舎なのでそんなに恵まれた環境ではないのですが、取りあえず何とか医療はやれてるという状況でしたから。

その時は、現地の病院のアメリカ人の院長とも会っていろいろ話をしました。また、カンボジア人の外科部長に手術があるのでまた来ないかと誘われました。この時はこの程度で、診察や手術は全くしていません。

カンボジアの病院で現地医師たちと。左端は岩田さんの妻で、一般社団法人ウィズアウトボーダーの代表でもある宏美さん(写真提供:ウィズアウトボーダー)

カンボジアの病院で現地医師たちと。左端は岩田さんの妻で、一般社団法人ウィズアウトボーダーの代表でもある宏美さん(写真提供:ウィズアウトボーダー)

──もうその時点からカンボジアで医療をすると決めたのですか?

いや、この時はまだ決めていません。でも帰国して、医療者として、治療を受けたくても受けられない、あのたくさんの困っている人たちを放ってはおけないと思いました。だから僕が手術して少しでも助かる人が増えるのであれば、行ける範囲でカンボジアに行こうと決めたんです。当時はまだ病院に勤務していたので行ける日数も限られますからね。

それで初めて行った年の秋か翌年かにもう1度カンボジアに行きました。その時したのが最初の手術ですね。でも今から考えると、最初に行った時、現地の病院の院長や医師と話したのは面接だったような気がします。向こうとしては最初からその気だったんでしょうね(笑)。


──そこから通うようになったわけですね。当初はどのくらいの頻度で通っていたのですか?

年に2回、1週間ずつくらいですね。そのために休みや有給を全部使っていました。あとはアジアで開催される学会に参加したついでに、2、3日休みをくっつけて行ったり。その後、無料で手術してくれる日本人の医者がいるという噂が広まるに連れて段々オファーが増えて、年に4、5回行くようになりました。

ラオスの病院で診察中の岩田医師(写真提供:ウィズアウトボーダー)

ラオスの病院で診察中の岩田医師(写真提供:ウィズアウトボーダー)

さらに、いろんな地域やカンボジア以外の国からも依頼がどんどん増えていきました。そうなると行く回数ももっと増やさなければいけない。でも病院勤めのままだとどうやっても全部に対応するのは不可能。それまでもできる限り対応していたのですが、限界に達したので、2013年、病院を辞めてフリーランスの医師になったわけです。それからは行く回数をもっと増やしました。

総合病院の口腔外科部長を辞職してまで

──辞める時はどんな立場だったのですか?

大阪の総合病院の外科部長でした。


──大きな病院の外科部長の職を辞してフリーランスになると年収も激減しますよね。迷いとか葛藤とかはなかったんですか?

岩田雅裕-近影2

そんなにはなかったかなあ。でも外科部長の時代からいろんな病院から依頼されて手術をしていたのですが、そういう病院がそのまま継続して手術しに来てくださいと言ってくれたのでなんとかなるかなと。それよりも途上国で困っている人を1人でも多く助けたいという思いの方が強かったですね。


──でも辞めた当初はかなり大変だったんじゃないですか?

確かに辞めたことで年収は5分の1になり、退職金も食いつぶして、一時は貯金も底を尽きました。ただ、それは一時的なもので、その後国内で手術を依頼してくれる病院も増えたので、年収も徐々に当時と同じくらいに回復しています。

岩田雅裕(いわた・まさひろ)

岩田雅裕(いわた・まさひろ)
1960年兵庫県生まれ。フリーランス医師

岡山大学歯学部卒業後、個人経営の歯科医院に就職。1年半歯科医師として勤務後、口腔外科を学ぶため岡山大学病院口腔外科へ。臨床と研究に注力し、年間100件以上の手術を行う。1993年、系列の広島市民病院に異動。33歳という異例の若さで口腔外科部長に抜擢。1997年から医療の遅れている中国湖南省で医療支援を開始。2000年に友人の誘いでカンボジアへ。劣悪な医療環境に衝撃を受け、カンボジアでの医療支援ボランティアを開始。唇裂口蓋裂 や腫瘍、顔面骨折、口腔内・頚部などの手術を無償で行う。2013年、より多くの患者を助けたいと、当時勤めていた岸和田徳洲会病院の口腔外科部長の職を辞してフリーランス医師に。以降、より渡航回数は増加。現在はカンボジアに加え、ラオス、ミャンマー、ブータンなど、年間20回以上通っている。18年間で手術をした患者は 3000人を超えた。現地では治療だけではなく、現地の専門医の育成や、妻とともに子どもたちへの健康指導、生活物資の寄与なども行っている。

初出日:2017.12.04 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの