現在の働き方
──現在はどのような働き方をしているのですか?
自宅はアトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」の近くにあるのですが、毎日お昼頃に起きて、妻と一緒に13時頃に「繪処アラン・ウエスト」に出勤してお客様を出迎える準備をします。その後はずっと作業場で絵を描いているのですが、日中はお客様が自由に出入りして僕が作業している風景や展示してある作品を見ることができます。もちろん気に入った作品は購入していただけます。17時まで作業をして、自宅に帰って晩ごはんを食べて子どもたちと過ごします。その後またアトリエに来て朝の5時頃まで描きます。基本的に1人で集中しなければならない作業は夜に行います。特に箔押しの作業は無風の状態で何時間もやらないとだめなので。作業が終了したら帰宅して就寝、という感じですね。「繪処アラン・ウエスト」では時々能などのイベントも行っているんですよ。ここにいないときは、いろんな教育機関や企業などで講演やワークショップを行っています。
──奥さんの役割は?
前にも話しましたが、妻とは1990年、加山先生の研究室に合格すると同時に結婚しました。元々は高校の教師をしていたのですが、三男が誕生してから4年後の2006年に教師を辞めて、アトリエでの仕事を手伝ってもらうようになりました。以来、来店したお客様の対応や取材対応、経理などの事務的作業を担当してもらっています。おかげで僕は余計なことを考えず、絵を描くことだけに集中できるのですごく助かっています。
自動車整備工場を改築
──谷中の今の場所に「繪処アラン・ウエスト」を構えた経緯は?
藝大時代は谷中の近くの本郷にアトリエ兼住居を借りていたのですが、1998年頃に大家さんから建て直すからと立ち退きを命じられました。立ち退きまでに与えられた猶予は1年。その間に文京区界隈の物件を探しまくりました。最初考えていたのは、1階で作業ができて作品が置けるほどの広さがあって、外から作業の様子が見えるような物件。探し始めて最初の1週間で、谷中の自動車整備工場を見つけて、思い描いていた条件にぴったりだったので、こういう物件に空きが出ないかなと思っていたのですが、散々探してもなかなかこういう物件にはめぐり会えませんでした。そろそろ期限の1年が迫ってこようとしていた1999年12月24日、再びその自動車整備工場の前を通ったら「貸します」という張り紙が貼ってあったんです。最初見たときから借りたかったところだと、すぐに張り紙に書いてあった連絡先に電話したら、まだ張り紙を貼って20分も経っていなかったらしく驚かれました(笑)。それが今、「繪処アラン・ウエスト」がある場所です。すぐ契約して、改築に取り掛かりました。
──まさに運命的な出会いですね。元が自動車整備工場だから改築はとても大変だったのでは?
はい。ものすごくお金がかかりました。元が自動車整備工場だから下は地べた。作品を下に置いて描けるような状態じゃなかったので有り金はたいてまず床を上げたんですね。また、シャッターの上げ下ろしの時や、店の前を車や自転車が通るたびにシャッターがカチャカチャ鳴ってうるさかったし、冬はシャッターを開けると風がダイレクトに入ってくるので寒かった。でもシャッターを下ろしたら暗いんですよ。だから床を上げた後、ガラス戸を付けました。玄関の部分はお寺の門の表の部分を買ってきて分解して移築したんですが、宮大工さんに組んでもらうためのお金を貯めるまで2年間かかりました(笑)。そうやって、10数年間かけて少しずつ改修していったんです。今も現在進行形でいろいろ改築中です。
自分のことだけでなく
──そんなご苦労があったんですね。外観、内装ともにとてもすてきなアトリエ兼ギャラリーですよね。
ありがとうございます。玄関を入って正面奥は作業場になっているのですが、外からも僕が絵を描いている風景が垣間見えるようにすれば興味をもってもらえていいかなと思ったんです。毎日この前を通る人は少しずつ絵が完成していくさまを見られるのでより興味をもってもらえるかなと。
それに、建築家やインテリアデザイナーの事務所を回って営業活動をするよりも、僕はただここで絵を描いているだけでお客様の方から自然とやってくるようにしたいと思ったのです。それと、自分のことだけじゃなくて、日本画の画材屋さんや掛け軸で使う織物の織元が相次いで廃業していたので、もっと業界を盛り上げるために日本画のアピールもしなければいけないという思いもあったんですね。
──そうすることによって効果はありましたか?
はい。ここをアトリエ兼ギャラリーにしてから絵の注文も徐々に増え、画家としての生活も少しずつ軌道に乗っていきました。
服装もオリジナル
──アランさんの服装は和のテイストが強いですが、これにもこだわりが?
今の服装は自己流です。試行錯誤を繰り返した末にこのスタイルに行き着きました。元々は下駄から始まったんです。絵を描いているうちに足の小指が麻痺するようになって、医師に圧迫しないように描きなさいと指示されました。それで下駄を履くようになったらとても楽になりました。同時に、裸足だと下駄の鼻緒がすれて痛くなるので、足袋を履くようになりました。
上着は、夏は蒸れて全身に蕁麻疹ができていたので、通気性と透湿性にすぐれた作務衣を着るようにしたんです。元々汗っかきで、描いてる時に汗が滴り落ちて高価な金箔を台無しにしていたので、襟元には手ぬぐいを3枚、入れています。
下はももひきを履いています。描くときは座って膝を横に崩して描いているのですが、ズボンだと1カ月半で股の部分が裂けちゃうんですよ。でも、ももひきだと1本1本が独立しているからねじれて座っても全然問題なくて、長くもつんです。
洋服を着ていた頃は日本画家と書いてある僕の名刺を渡した時、相手に嘘くさいと思われていたようですが、この格好にしてからは日本画家だと思っていましたと言われるようになりました。だから外見と職業が一致してるのも大事かなと思いますね。
アラン・ウエスト(Allan West)
1962年アメリカ、ワシントンDC生まれ。日本画家/「繪処アラン・ウエスト」代表
3歳から絵を描き始め、8歳で画家を目指す。9歳から絵画教室に通い始め油絵を学ぶ。14歳で初めて絵の注文制作を受け、舞台背景などを描く。高校時代は絵画で大きな賞をいくつも受賞。「National Collection of Fine Arts」(現スミソニアン・アメリカ美術館/Smithsonian American Art Museum)で週2回、ボランティアとして学芸員のサポートを経験。大学は競争率50倍という高いハードルをクリアし、カーネギーメロン大学芸術学部絵画科に入学。1年で休学し、理想の画材や技法を求めて日本へ。岩絵具や膠などの日本画の画材と出会い、日本に移住して画家として活動することを決意。1987年、カーネギーメロン大学学部卒業後、日本へ。1989年、東京藝術大学日本画科 加山又造研究室に研究生として入室。日本画の技法や画材の取り扱い方を学ぶ。同時期に日本人女性と結婚。1999年、谷中に自動車整備工場を改築して、アトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」を構える。以降、掛け軸、版画、衝立、屏風、襖絵、パネル画、酒瓶のラベル、扇子、着物などに作品を描き、数々の展覧会に出品、受賞多数。仕事の8割が注文制作で、クライアントも企業、ホテル、イベントホール、レストラン、神社、自治体、個人など多岐にわたる。その他、講演、ワークショップ、ライブペインティングなども精力的にこなしている。また「繪処アラン・ウエスト」で能楽などのイベントも開催している。
初出日:2016.11.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの