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2016.09.15  取材・文/山下久猛 撮影/大平晋也

昼は仕事、夜は授業

──大学卒業後、金沢の高校で国語の教師として勤務した後、上京したということですが、東京に来てからはどのような仕事をしたのですか?

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農業系の新聞社に転職し、整理記者として紙面レイアウトの仕事を始めました。そもそも父親が新聞記者だったのでメディアの仕事には興味があり、就職を考える時、マスコミ業界も選択肢の1つとしてあったんです。それに通っていた大阪芸術大学では媒体編集も学んだので、編集の仕事もしてみたいと思い、その新聞社に入ったというわけです。

こうして昼間は新聞社でのレイアウトの仕事、夜は宗教科の教師の免許を取るために上智大学の講座で授業を受けるという二足のわらじ生活が始まりました。


──上京してからも教会には通っていたのですか?

はい。上京した家の近くに教会があったので。というかそれで住む家を決めたんですけどね(笑)。農業系の新聞社で3年勤めた後、キリスト教系の出版社に転職して、書籍編集の仕事を始めました。

実はこの頃、またほのかに神父になりたいという気持ちが沸き上がってきたんですよ。あれだけ封印していたのに。それで通っていた教会で神父になるための指導を受け始めました。しかし、その頃、カトリックの信仰そのものに行き詰まりを感じていました。教義に同性愛は禁じられているとはっきり書いてありましたし、周りにもセクシュアリティのことを話題にする人はいませんでしたから、非常に疎外感を感じていたんです。

また、教会に通っていた信徒の多くがインテリ・富裕層だったことにも違和感を覚えていました。若さゆえの潔癖だったのかもしれません。本来、キリスト教はお金持ちの人のための宗教ではなくて、貧しい人たちのための宗教だろうと。それと、昼間の仕事場もキリスト教系の出版社だし、夜も大学でキリスト教のことを勉強していたのでキリスト教漬けの毎日に何となく嫌気が差して教会から徐々に足が遠のいてしまったのです。

人生を変えたニューヨークへの旅

初めてニューヨークに行った時の写真(1995年)

初めてニューヨークに行った時の写真(1995年)

──それからはキリスト教とは全く無縁の生活に?

はい。教会に行かなくなって半年くらい経った1995年の夏、27歳の時にニューヨークへ1人で行きました。10日間ほどの旅であったのですが、この旅がその後の私の人生を大きく変えるきっかけになったんです。

現地の教会にゴスペルを聴きに行くオプショナルツアーに参加した時のことでした。ツアーに添乗していた日本人の現地ガイドが各スポットでキリスト教に関する解説をしていたのですが、それがことごとく誤った情報で、私が代わりに解説したいという気持ちを抑えるのに必死でした(笑)。

20年前に牧師になる志を与えられたニューヨーク聖ヨハネ大聖堂

20年前に牧師になる志を与えられたニューヨーク聖ヨハネ大聖堂

コロンビア大学の近くにある聖ヨハネ大聖堂に来たときに、その日本人ガイドが「この教会はユニークな礼拝をしているけど、社会奉仕にもすごく熱心で、エイズで亡くなった人の葬儀を積極的に行っているんです」と解説しました。当時はアメリカのみならず世界中でエイズが猛威を奮っていて、たくさんの人が亡くなっていた時代です。その話を聞いて、「では他の教会ではエイズで亡くなった人の葬儀をしてくれないのだろうか?」と疑問に思い、日本に帰ってから自分で調べようと心に決めました。

その他に印象深かったのは、ニューヨークにもLGBTの集まるエリアがあって、そこにある教会には"All are Welcome."と書いてあったこと。これこそが日本の教会とは違って本来のキリストの精神だ、こういうクリスチャンたちもいるんだと大いに感銘を受けたのを覚えています。

帰国後、再びキリスト教の世界へ

──帰国後はどういう行動に?

このニューヨークでの経験はかなり衝撃的だったので、帰国後すぐにキリスト教とエイズの関わりを調べ始めました。本や雑誌などの資料を読み込むだけではなくて、実際にエイズ患者の支援活動をしている神父や牧師や修道女などに会いに行って直接話を聞きました。その結果、あのガイドが話していたことは正しいということがわかりました。

エイズが流行し始めた1980年代は、エイズ患者やHIVウイルスの感染者にゲイの人たちが多かったので、彼らは社会のあらゆる場所でいわれなき迫害や差別を受けていました。中には「神の罰が下ったんだ」などとひどいことを言う人々も多くて。それは教会も例外ではなく、「当教会の信徒にはエイズ患者はいません」とか「エイズは同性愛者しかかからない病気だ。したがって教会には同性愛者がいないからエイズ患者もいない」などとずっと主張してたのです。だから確かに聖ヨハネ大聖堂やごく少数の教会だけがエイズ患者を受け入れていたし、エイズで亡くなった人の葬儀を積極的に行っていたんです。

もちろんエイズは、HIVウイルスによって引き起こされる病気で、同性愛者だけが罹患する病気ではありません。ウイルスは人を選びませんからね。でも当時の科学的根拠のない偏見で患者のケアや原因究明、感染予防対策などが遅れたのです。アメリカはレーガン政権の時にエイズ対策が後手に回されていました。予算もつけなかったし、役所も対策に消極的だったと聞きます。あの時にきちんと対策を取っていればこれほど世界に広がることはなかったでしょう。

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このようなキリスト教とエイズの関わりを調べる過程で、知り合った神父や牧師に「実は日本でもエイズ患者と一緒に歩もうというキリスト教のグループが立ち上がるから君も参加しないか」と誘われて、彼らと一緒に活動を始めました。私たちの教会ではエイズ患者のための活動もしているとお話ししましたが、それはこの時のことがきっかけだったんです(※前編参照)。こういうわけで、いったんは距離を置いていた教会にまた引き戻されていきました。

また、ちょうど同じ頃にLGBTのクリスチャンたちが東京で、シークレットで教会を借りて集会を始めたという話を聞いて参加したのですが、このことで日本にもゲイのクリスチャンが少なからず存在することがわかりました。彼らが大手を振って教会に行くために、シークレットにしなければならないという状況に理不尽さを覚え、彼らがLGBTであることを隠さなくても普通に来られる教会をつくりたいと思うようになったんです。

だからニューヨークに行って、あのガイドさんのいるバスに乗らなかったら教会に戻らなかったし、牧師になって教会を設立することもなかったかもしれないんです(笑)。この時にもやっぱり神様はいるんだなと思いましたね。

生死の境をさまよう

──それから牧師にはどのようにしてなったのですか?

大きなきっかけとなった出来事がもう1つあるんです。30歳の時に肺炎にかかって、生死の境をさまよいました。肺炎で亡くなる人も多いですし、病院で胸のレントゲンを撮ったら真っ白だったので一時は本当に死んでしまうんじゃないかと不安にさいなまれました。

3週間ほど寝込んでいたのですが、ある日、なぜかある1点に視点が固定されて動かなくなりました。それは私がその頃働いていたキリスト教系の出版社で発行されたカレンダーの写真だったのですが、緑の平原の中に小さくぽつんと白い教会が建っているのが見えたんです。自分で編集してる時には全く気づかなかったのに。

その時、何となく神様がすぐそばにいるように感じたんですよ。それで、これまであっちへ行ったりこっちへ行ったりふらふらしてきましたが、もし命を助けていただいたら、神様に私の一生を捧げて、神様のために働きますと心の中で誓ったのです。そしてその後、幸いにも肺炎は快復したので、本気で牧師になって、LGBTの人でも自分のセクシュアリティを隠さずに、堂々と来られる教会をつくろうと決意したのです。

そのために、カトリックからプロテスタントに戻る決意をしました。現在カトリック教会はLGBTをはじめとする性的マイノリティを受け入れようと心を砕いています。今年(2016年)、ローマ教皇フランシスコは「キリスト教は同性愛者に謝罪すべき」との発言もして、変化の兆しが見られるようになってきましたが、当時は、そのような気配さえ感じ取ることができませんでした。それで、比較的自由なプロテスタントの牧師を目指し、教会の設立に備えたのです。

中村吉基(なかむら よしき)

中村吉基(なかむら よしき)
1968年石川県生まれ。日本キリスト教団新宿コミュニティー教会牧師

幼い頃から教会に通い、高校1年生の時に洗礼を受ける。大阪芸術大学卒業後、郷里の金沢に戻り、高校教師に。上京後は農業系の新聞社で整理記者、キリスト教系の出版社で編集者として勤務。同時にキリスト教系の中学や高校で聖書を教える宗教科の教員免許を取得するために上智大学で聴講し、教員免許を取得。1995年、観光で訪れたニューヨークでエイズ患者が教会から排除されている事実を知り、エイズ患者やLGBTに開かれた教会を設立することを決意。2000年、牧師になるために神学校に入学、2004年、神学校を卒業し、牧師になると同時に日本キリスト教団新宿コミュニティー教会を設立。現在は週日の3日を通信社の編集者として勤務し、日曜は牧師として礼拝を行うほか、結婚式の執行、相談者のカウンセリング、教育機関での講演・講義などの活動を行っている。

初出日:2016.09.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの