WAVE+

2016.09.15  取材・文/山下久猛 撮影/大平晋也

新宿二丁目にバーを開店

新宿二丁目で「牧師Bar」を開店(2010年)

新宿二丁目で「牧師Bar」を開店(2010年)

──でも牧師の仕事だけでは生活していけませんよね。

そうなんですよ。しばらくは貯金で何とかなっていたのですが、半年ほど経つ頃にはそれも心もとなくなってきました。でももう激務の仕事には就きたくなかったんですね。ではどういう仕事をしようかと考えた時、私は夜型人間でお酒も好き、そして近所の四谷三丁目にはお坊さんが経営する坊主バーがあって、歌舞伎町にはフランス人の神父さんが始められたバーがありました。ならば牧師でもバーができるんじゃないかと思い、2010年7月、残りの貯金をはたいて教会の近くの新宿二丁目にバーを開店したんです。でもいわゆるゲイバーではなくて、一般の人や女性たち、牧師仲間など、いろいろな人が来てくれていました。

おかげさまでけっこう賑わっていたのですが、開店から7カ月後の2011年3月11日に東日本大震災が起こってからは状況が一変しました。私の店はビルの3階にあったのでかなり揺れて、ボトルや食器が全部割れてしまいました。それよりつらかったのは自粛ムードが続いたこと。仕事が終わったら早く家に帰るという人が増えて、ぱったりと客足は途絶えてしまったんです。おそらくその影響で歌舞伎町のフランス人の神父さんが始められたバーも震災から半年後に閉店。私のバーも経営が苦しくなり、翌年の2012年9月に閉店せざるをえませんでした。

再び編集の世界へ

──当時は震災の影響でたくさんのお店が閉店に追い込まれたと聞きます。その後はどうしたのですか?

いろいろなアルバイトや単発の派遣の仕事をしましたが、2014年、またフルタイムで編集の仕事をするようになりました。


──でも以前の出版社を辞めた後は、編集の仕事はしたくないと思っていたのですよね? それなのに戻ったのはなぜですか?

中村吉基-近影5

そのきっかけとなった出来事がありました。アルバイトをしている時に、行きつけのバーで出会ったある会社の経営者の人が「受け身で待っていても仕事は来ない。自分ができることをどんどん周りにアピールしていろいろな人に伝えることが大事だよ」と話してくれたんですね。これを聞いたことで、私の中でちょっとした変化が起こりました。

これまでの人生、いろいろなピンチや困ったことがあった時でも、必ずいつも誰かが手を差し延べてくれました。だからその当時も、本当に困ったら誰かがきっと助けてくれるはずと、高をくくっていたところがあったのです。自分では何にもしていないにも関わらず。でもそんな状況ではやっぱり仕事の話は来なくて、たまにやりたいと思う案件が来ても運悪くできなかったりしてうまくいかなかったんです。それでその言葉を聞いた時、受け身でいたことは非常によくないと反省し、今まで避けてきたけれど、やっぱり自分ができること、人の役に立てることは「編集の仕事」において他にないと思い、その日以降、一念発起して「編集でもライターでも校正でも何でもやります」という意志表示を開始。するとそのとたんにいくつも仕事の依頼が舞い込んできたんです。これには自分でもびっくりしましたね。実はいろいろな人が私のことを見ていてくれて、「こういうことができます!」と自分から手を挙げることによって、声をかけてくれたわけです。

その中の1つに資格の学校が出版するテキストの校正の仕事があったので、月曜日から金曜日はフルタイムでその仕事をし、帰宅後の夜間や休日には在宅でキリスト教雑誌の編集の仕事などを請け負うようになりました。そして今年(2016年)の6月からは牧師としての活動を増やすため、少し働き方を変えたというのは冒頭にお話した通りです。(※前編参照)


──将来的には牧師としての仕事だけで生きていきたいという思いはありますか?

いえ、編集や執筆の技術を習得したのも神様のご計画だと思いますし、この仕事が好きですし、それをもって誰かのお役に立てる部分もあると思います。また、一昨年(2014年)には自らが教会の礼拝で話してきたメッセージ集を出版しているのですが、これもキリスト教を知ってもらう活動の一環です。だから今後も何かしら出版の世界には関わっていきたいですね。

ゲイとして生きるということ

──中村さんは10代の頃からご自身のセクシュアリティについて自覚的で、25歳頃にはゲイとして生きることを覚悟したそうですが、これまでゲイであることで生きづらさを感じたことはありますか?

前にもお話した通り、初めてLGBT以外の人にカミングアウトした27、8歳以降、徐々に信頼できる人にカミングアウトしていったのですが、幸いにしてそれによって私との友情が壊れたという人はいません。みんな受け入れてくれたし、差別や偏見を受けたことはないので、基本的に生きづらさを感じたことはないですね。

中村吉基-近影6

会社員時代は自分からカミングアウトすることはなかったですが、ゲイですかと聞かれたら「はい、そうです」と答えるというスタンスでした。面と向かって聞かれたこともあまりないですけどね。現在はFacebookなどのSNSでゲイであることは公表していますし、取材などでもそう発言しています。

昨年(2015年)は、メディアにインタビューされることが多かったのですが、その記事が出ると、今年久々に高校時代の恩師に会った時、それまでは会う度に「まだ結婚しないのか」と言われ続けていたのに、言われませんでした(笑)。中高大学時代は誰にもカミングアウトしてなかったんですよねと言ったら、同じ記事を読んだ私の高校時代の同級生は、みんな(セクシュアリティのことを)分かっていたよね、と言っていたそうです。その頃は一切隠してたのに、やっぱりわかってしまうものなんですね(笑)。

ヘイトスピーチも

──ではゲイであることで誹謗中傷を受けたこともないのですね。

日常生活ではそういうことはないですね。ただ、今私がけっこうメディアに出ているで、見ず知らずの人からのヘイトスピーチがなくはないです。特に今年(2016年)のゴールデンウィークの「東京レインボープライド」はけっこうきつかったですね。一般人になりすましたアメリカ人の宣教師が寄ってきて友好的に話しかけてきたんですが、最後にはゲイが「治った」人の体験談のビラをブースの前で撒かれました。また、あるアフリカ系の女性が「あなたたちは間違っている!」と大声で演説して来て私と口論になることもありました。そういうアンチの人もLGBTのフェスティバルには来るんですよね。逆にパレードでは牧師の正装をして行進するのですが、外国人が(好意的に)日本にもゲイの牧師がいるのだとすごく関心を持って近づいてきます。

それから、私たちの教会の礼拝にアンチLGBTの人が潜り込んでくる場合もあるんです。開口一番「ここは変わり者が集まる教会ですか!」と叫ぶ人がいたり、私が話している間は神妙に聞くのですが、その後、心ない言葉をまくし立てたりする人もいます。そういう人たちはLGBTを認めない教会から送り込まれてきているのですが、今年に入ってから増えましたね。

長崎県・鎮西学院で諫早市民を対象にした講演にて(2016年)

長崎県・鎮西学院で諫早市民を対象にした講演にて(2016年)

ダブルマイノリティのつらさ

──クリスチャンのゲイという点がその原因なのでしょうか。

前にもお話した通り、自虐的に言うわけじゃないのですが、私のような人のことは「ダブルマイノリティ」と呼ばれています。つまり、クリスチャンは日本の全人口の0.8%、LGBTは5%しかいないので2つのマイノリティであることを背負ってして生きなきゃいけない。かといって毎日苦しい思いをしながら生きているという感じでもないんですけどね(笑)。


──ここ数年でLGBTの社会的認知度、理解度は上がってきているような気がしますが、教会は変わっていないのでしょうか。

そもそも教会の方が世の中より10年遅れていると言われていますし、日本のキリスト教もアメリカのキリスト教よりも10年遅れていると言われています。また、キリスト教界の中でもLGB(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル)とT(トランスジェンダー)とは理解が少し異なっているんです。LGBは「自分が好きでそのセクシュアリティを選んでいる」とされ、トランスジェンダーは、性同一性障害とひとくくりにされて、それは自分が好きでなっているのとは違うから「お気の毒」にという理解をする人もいるくらいです。これもひどい誤解なんですけどね。

中村吉基(なかむら よしき)

中村吉基(なかむら よしき)
1968年石川県生まれ。日本キリスト教団新宿コミュニティー教会牧師

幼い頃から教会に通い、高校1年生の時に洗礼を受ける。大阪芸術大学卒業後、郷里の金沢に戻り、高校教師に。上京後は農業系の新聞社で整理記者、キリスト教系の出版社で編集者として勤務。同時にキリスト教系の中学や高校で聖書を教える宗教科の教員免許を取得するために上智大学で聴講し、教員免許を取得。1995年、観光で訪れたニューヨークでエイズ患者が教会から排除されている事実を知り、エイズ患者やLGBTに開かれた教会を設立することを決意。2000年、牧師になるために神学校に入学、2004年、神学校を卒業し、牧師になると同時に日本キリスト教団新宿コミュニティー教会を設立。現在は週日の3日を通信社の編集者として勤務し、日曜は牧師として礼拝を行うほか、結婚式の執行、相談者のカウンセリング、教育機関での講演・講義などの活動を行っている。

初出日:2016.09.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの