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2016.08.17  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

高校時代の原体験

──鯉渕さんの活動のモチベーションになっているのは、「社会にインパクトを与えることで、よりよい未来を描きたい」という思いで、その原体験を高校時代にされているそうですが、どのような体験だったのですか?

鯉渕美穂-近影1

今でもすごくよく覚えているのですが、高校の文化祭での実行委員の経験が原体験になっています。文化祭のパンフレット制作の責任者をしていたときに、年々増えるコストを頑張って削減できたというのがルーツですね。実際に行ったことは、紙質や色数を制限したりすることで、印刷費を10万円も削減しながら、発行部数を増やすことでき、最後の来場者までパンフレットを配ることができました。このような小さな変化で大きなインパクトが起こせたことに大きな達成感と喜びを感じ、経営に興味をもつようになりました。そこで大学は経営工学部に進学し、統計工学や、原価計算、オペレーション工学、プログラミングなどビジネスに関することを幅広く学びました。

外資系コンサルティング会社に就職

将来は企業の10年後にインパクトを与える仕事がしたいと思っていたので、大学3年生の時に戦略系コンサルティング会社のインターンに応募し、一週間のお仕事体験をさせていただきました。徹夜の連続でとてもハードでしたが、課題について納得いくまで議論して結果を出すことにやりがいと喜びを感じ、やはりこの道に進みたいと決意。また、就職するときは、20代は好きな仕事に全力で打ち込み、30歳になったら専業主婦になろうと思っていたので、とにかくやりたいこと、つまり経営にたずさわる仕事に早く就きたいと考えていました。主にこの2つの理由で大学卒業後は、外資系コンサルティング会社に入社したんです。


──具体的にはどのような仕事をしていたのですか?

主に大企業の業務プロセス改善で、会計コンサルタントとしてお客様先に常駐することが多かったです。週6日勤務は当たり前でやはりハードな世界でしたが、体を動かすことも好きだったので、冬場は夜中の0時まで働いて1、2時間だけ仮眠を取ってゲレンデに出発、到着後は始発のリフトからまともに昼食も取らずにひたすら滑ってリフレッシュし、そして翌日からまた仕事というのを繰り返してました。


──若いとはいえすごい体力ですね。

丈夫な体に育ててくれた両親に感謝です。大学時代にテニスサークルで鍛えられたのもよかったと思います。体力をつけておくとその分動ける時間が増えるので、人生は楽しめる気がしてます(笑)。

外資系ソフトウェア会社に転職

最初に就職するときは、どんなに忙しくてもつらくても、社会人としてきちんと経験を積むために5年はとにかく仕事を頑張ろうと決めていました。その5年が過ぎたとき、今の主人との結婚が決まり、もう少し自分の時間がもちたいと、外資系ソフトウェア会社に転職しました。そこでは、今までしていたコンサルティングのいわゆるバックオフィスとして、プロジェクト管理や、請求管理、契約管理、また米国本社へのレポーティングを英語で行うなどの業務を任されていました。フロント業務から、またそれを支えるバックオフィスの大切さを学ぶことができ、いまでもいい経験になったと感じています。

鯉渕美穂-近影2

転職してから2年ほどたち、新しい業務にも慣れて自分の時間もしっかりもてるようになった頃に、ふと「自分にとって仕事とは」ということを考えるようになりました。そこで、仕事が自分の人生にとってかけがえのない大切なものだと気づいたんです。まだ子どももいなかったので、自分の時間をもっと仕事を通じて成長することに費やしたい、全力で打ち込める仕事がしたいと思うようになりました。それまでシステムを通じて企業の変革を支援してきましたが、それと同時にシステムは変わっても人が変わらなければ会社は変わらないということも実感していたので、今度は人を変えることで企業の将来にインパクトを与えるような仕事がしたいと思い、人材育成コンサルティングのベンチャー企業に入社することを決意したんです。

人材コンサルティング会社へ

──転職してみてどうでしたか?

人材コンサルティング会社時代。ベトナム人の講師とともに

人材コンサルティング会社時代。ベトナム人の講師とともに

主に法人向けの企業内研修を提供することで社員の成長を支援し、企業の成長へと導くお仕事だったのですが、自分にとってはまったく新しい未知の分野への挑戦でしたので、日々悩みながらも、充実感がありました。はじめはマーケティング業務、その後は直接お客様に提案できる営業も経験させていただきました。また、人が変わるきっかけとなる研修の講師も自分で行うことで、企業の若手社員の方々が気づきを得ることで行動が変わっていく姿を目の当たりにすることができました。それはとてもうれしく、やりがいを感じましたね。


──プライベートも充実していたのですか?

自分なりにキャリアを築いていく一方で、プライベートでは、なかなか子どもに恵まれず悩んでいたこともありました。仕事を辞めて子どもを授かるための治療に専念するという選択肢もありましたが、結果的に子どもを授からなかったときに自分のキャリアに後悔しないよう、どちらもあきらめずに頑張ろうという思いに至りました。

大きな転機

ちょうどその頃、「グローバル人材育成」というキーワードが注目され、企業でも英語を使った研修の案件が増えてきました。英語にはあまり抵抗がなかったこともあり、積極的にそういった案件に携わる中で、自分も日本でも海外でもボーダレスに活躍できる人材になりたい、そのための経験を積みたいと強く思うようになりました。そこで、はじめは海外でMBAを取得しようと思い、会社に「休職してMBAを取るために留学したい」と相談したところ、シンガポール支社立ち上げのお話をいただきました。主人に相談したところ、「MBAよりも、実戦で経験を積むほうがいいから応援するよ」といってもらい、社内公募に応募し、2011年にシンガポールに単身赴任することになったんです。


──シンガポールではどのように支社を立ち上げたのですか?

オフィスも営業先も人脈も、本当に何もないゼロからのスタートでした。また、雇用についても会社法についても、日本とはルールが違っていたりしたので、はじめは大変でしたね。文字通り右も左もわからなかったので、とにかく会う方にいろいろ教えていただきながら、オフィスや営業先リストを作りながら進めて行きました。

鯉渕美穂-近影3

しかし、ちょうど生活にも慣れてきた頃に衝撃的な出来事が起こりました。シンガポールに赴任して1ヶ月たった土曜のお昼に、父が倒れたという知らせが日本の家族から届いたんです。しかも予断を許さないという深刻な状況で......。ちょうど週末だったので、すぐに日本へのフライトを手配して父の入院した病院に駆けつけました。その後2カ月間は集中治療室からは出られない状態が続いていたので、一時は駐在を打ち切って日本に帰国しようとも考えましたが、最終的にはシンガポールに残る決断をしました。


──それはなぜですか?

やはり家族に応援してもらい、自分で決意したシンガポール駐在だったことがまず1つ。それと、自分のキャリアを長期的に考えて経験したいと思った海外支社立ち上げだったので、ここまで環境が整っている中でのチャンスなんて二度とないかもしれないと考えたからです。とはいえ、やはり父が心配だったので、せめて週末だけでもそばにいたいと、月曜から金曜日までシンガポールで働いて、その足で深夜便の飛行機で出発し、土日は父の入院している病院で看病し、再び成田発の23時の便で月曜日の朝にシンガポールへ帰るという生活を数カ月ほど続けました。精神的にも体力的にも厳しい日々でしたが、学生時代に培った体力のおかげで乗り切れました。その後、幸いにして父は日常生活が送れるまでに快復できたのでシンガポールでの仕事に集中できるようになったんです。

鯉渕美穂(こいぶち みほ)

鯉渕美穂(こいぶち みほ)
1977年東京都生まれ。MIKAWAYA21代表取締役社長

雙葉学園中学・高校卒業後、東京理科大学経営工学部へ。卒業後、外資系大手コンサルティング会社入社。 国内大手製薬会社や公団民営化に伴うプロジェクトに会計コンサルタントとして参画。外資系ソフトウェア会社を経て、人材育成コンサルティングに入社し、法人向けの教育研修事業部のマネジャーとして部署を統括後、シンガポール現地法人のディレクターとして海外拠点を立ち上げ、新規事業推進に従事。2014年10月、シンガポール駐在時代に知り合った友人に請われ、地域密着で子供からシニアまで安心して暮らせる社会の実現に取り組むベンチャー企業「MIKAWAYA21」株式会社の代表取締役社長兼COOに就任。2014年12月に長女を出産。現在は経営者、一児の母として仕事と育児の両立に励む日々。趣味はテニス、ゴルフ、車、茶道。

初出日:2016.08.17 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの