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2016.06.22  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

現代を生きる人々への提言

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写真左/第二艦隊海上特攻戦没者第16回合同慰霊祭にて。矢矧乗組員と(前列右端が池田さん)  写真右/海軍兵学校第35分隊会にて(最前列右から2人目が池田さん)

──池田さんから見て今の日本はどう映りますか?

いい面と悪い面の両方がある。いい面は、戦後間もない頃と比べると、社会的に自然を大事にする風潮がかなり強くなってきたこと。悪い面は現代人は贅沢に慣れすぎてるよね。もっと質素でいいと思う。


──命を投げ出して国のために戦ったのに、今の日本を見てがっかりするようなことはないですか?

そういうことはあんまりなかったなあ。それよりも戦後は珍しいことばかりで、いろんな新しいことを経験したから、そんなことを思う暇がなかったね。僕は元々好奇心旺盛で、いろんなことに興味がある。生きてると「へ~!」と思うようなことにいろいろ出会うから、これまでの人生、すごくおもしろかったよ(笑)。


──今の日本の人々に伝えたいことは?

池田武邦-近影04

近代の日本人は自然があまりにも厳しいものだからコントロールしようとした。それによって確かに近代技術文明が発達してきたんだけど、そもそもそれが根本的な間違いなんだよ。自然科学は自然を征服するんじゃなくて、自然の恵みをいかに引き出すかを考える学問。その原点に立てば自然を敬う心と一致するはずなんだ。昔の日本人はそれができていた。

やっぱりね、どんなに科学技術が進歩しても自然にはかなわないんだから、恐れ敬うという心が必要なんだよ。そもそも自然を神として敬うのが日本本来の文化で原点でしょう。古来、日本にはすべての自然のものに神が宿っているという八百万の神という思想があったわけだからね。それに、昔の日本人は人間の寿命よりもはるかに長い何百年も生きている木は神様の木、神木として注連縄を張って敬っていたし、昔の日本の集落には鎮守の森が必ずあった。でも今は随分減っちゃったでしょ? 村や町を作ったら、人々の精神的な拠り所となる空間をどこかに作らなきゃいけないんですよ。

この精神的な空間というのは村や町だけじゃなくて個人の家にも必要だと思う。個人宅の場合は神棚や仏壇がそれに当たるんだけど、若い時の僕にはそれがわかっていなかった。33歳の時に渋谷の代々木公園の近くに自分の家を建てたんだけど、神棚や仏壇を置くスペースを作らなかったんだ。その後、僕の娘が若くして亡くなったんだけど、娘を家の中に祀ろうとしたら、仏壇がなかったことに初めて気がついた。我ながらびっくりしてね。昔はどんなに貧しい家でも神棚や仏壇があったんだよ。東京の下町の長屋でもね。でも自分で設計した家には精神的な空間がなかった。これはショックだったね。大反省してすぐに神棚と仏壇を作って娘を祀った。どんなに近代化しても精神的な空間はなくちゃいけない。機能性や利便性も大事なんだけど、精神的な空間を大事にするということを忘れちゃいけないんだ。

池田さん(写真最前列左)はC.W.ニコルさんとも数十年来の親交がある。2015年のエコプロではオカムラのブースで対談を行い、自然環境保護の重要性を訴え、行き過ぎた近代技術文明の追求に警鐘を鳴らしている

池田さん(写真最前列左)はC.W.ニコルさんとも数十年来の親交がある。2015年のエコプロではオカムラのブースで対談を行い、自然環境保護の重要性を訴え、行き過ぎた近代技術文明の追求に警鐘を鳴らしている

こういうことは近代的な合理主義からいったらほとんど何の意味もないように思えるけど、実はそれが日本の原点。その考え方を近代技術文明が進めば進むほど大事にしていかなきゃいけないと思うよね。自然に逆らって近代建築を推し進めると痛いしっぺ返しを食らう。それは阪神淡路大震災や東日本大震災を見ても明らかでしょう。


──東日本大震災の被災地の中には、もっと防潮堤を高くする工事を行っている町もありますが。

防潮堤の嵩上げは神に対する冒涜だと思うよ。どんなに人間の力で高くしたって、それを自然の力は簡単に上回る。だからあくまでも自然を畏れ敬って、逆らわないで生きていくことが大事なんだよ。

それに、現代の近代技術文明が発達するにつれて、つまり人間の暮らしが便利になるにつれて、自然と人間の生活がどんどん乖離している。これは大きな落とし穴だと僕は思うね。近代技術文明が便利だからといって、健康な若い人が盲信してどっぷりハマると精神が堕落してしまう。そのことをはっきりと峻別して、自分がどういう人生を送るべきかを考えることが重要だと思う。これが僕の一番伝えたいことだね。

人間も自然の一部

池田武邦-近影05

これまで話した通り、太平洋戦争末期、沖縄海上特攻で乗っていた矢矧が沈められて海を漂流しているとき、子どもの頃に過ごした家のことが頭に思い浮かんで、もう一度あの家の畳の上で寝そべりたいと思った。その時のイメージが鮮明に残っていて、戦後建築家になって超高層ビルの設計を散々したけれど、やっぱり人として近代技術文明の粋を結集した超高層ビルに住んだらダメになると思い、社長を辞任した後、自分の住処は長崎の海辺に日本古来の家を設計して暮らした。そこはとても居心地がよかった。やはり人間は自然の一部なんだから、自然の中で生活することが一番いいんだと心底思ったんだ。

僕らは近代技術文明に毒されすぎているんですよ。それに頼りすぎると身も心も必ずおかしくなる。健康な心を育むには、できるだけ自然の中で暮らすことが大事。自然の中で自然の恵みを受ける。やっぱり暑い時は暑い、寒い時は寒いと、自然を体感しながら生活するのが一番いい。特に成長期の子どもはね。


──でも一回便利な生活に慣れちゃうとなかなかそれ以前に戻るのは難しいですよね。

そうだね。本来は人間にとって何が幸せなのかを考えなきゃいけないんだけど、今は技術で何でもできちゃうし、多くの人はそれに慣れちゃって便利さを追い求める。人の欲望が便利さとか経済の方に行っちゃってる。でも、こういう現代から延長した将来にはあまり希望がもてないんじゃないかな。そうすると結局滅びるよね。もっと原点に戻って自然を大事にしなくちゃね。

池田武邦-近影06

だけどね、僕の考えはいろいろ話したけれど、一方で今の若い人にそれを押し付けちゃいけないとも思っているんだよ。今は価値観が人それぞれ、いろいろあるじゃない。とんでもない意見だと思ってても、詳しく聞くとなるほどと思うところもある。だからといって僕自身の考え方を変える気は毛頭ないんだけどね。僕自身のやることを見て学ぶところがあると思ったら学んだらいいし、批判するならしてもいい。批判する人の言い分もそれなりに信念があるなら、自分のやりたいようにやってくれという感じ。そうするしかないと思うんだよね。

建築論

──人にとって建築とはどういうものであるべきだと思いますか?

よく衣食住というけど、建築は我々人間が生きていくために欠かせない存在。しかも建物は人間を育てる場でもある。どういう家で育ったかということがその人の性格とか人間性、将来にものすごく大きな影響を及ぼすから、そういう意味において建築は人間社会にとってものすごく重大なものだよね。だからこそ今、建築というものをもう一度見直して、この建物は人間にとって本当に必要不可欠なものかどうかという視点を常にもっていないといけない。これが僕の建築に対する基本的な考え方です。

池田武邦

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者

2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月6日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

初出日:2016.06.22 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの