ハウステンボスだけきれいになってもしょうがない
──でもそれは直接ハウステンボスの経営には関係ないですよね。なぜ莫大なお金と手間をかけてそんなことを?
ハウステンボスだけきれいになってもしょうがないからだよ。ハウステンボスは大村湾の一部なわけだから、大村湾の生態系を回復させ、海をきれいにすることが結果的にはハウステンボスを豊かにすることにつながるんだ。さっきも言ったけどハウステンボスは町づくり。海がきれいになると陸もきれいになるからね。だからオープンしてから15年経って大村湾は生き返って今、すごくいい海になっているし、ゴミ捨て場だったところは豊かな森になっているんだな。
──あの雪の日の思いが何十年も経って結実したわけですね。
でもいいことばかりじゃなかった。そういった環境面に莫大なお金をつぎ込んだから経営的には難しくてね。そもそも循環型の町づくりに民間企業が取り組んで利益を出すのは無理があるんだよ。本来は町づくりなんだから国がやるべきこと。僕も神近さんもある程度採算ラインに乗ったら国に寄付して本物の町にしてしまおうと考えていたんだ。でもその前、2003年に経営破綻してしまった。今は経営者が替わって好調のようだね。
池田研究室
──池田さんは1989年に日本設計の社長を引退して会長に、それも1994年に辞任してますよね。それからはどのような活動を?
そこからは本当にやりたかった21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求するべく、70歳の時に「池田研究室」というのを立ち上げて、無償で全国の地域おこしの相談に乗るようなことを始めたんだ。これも社会貢献したいという気持ちからだった。
立ち上げてから2年後くらいに秋田市役所から連絡が来てね。鵜養(うやしない)という山間集落が過疎化が進んでいてこのままだと消滅してしまうから何とかしてほしいという相談だった。それで鵜養に行ったんだけど、そのとき、大きな衝撃を受けた。日本の原風景そのものといえるくらい昔ながらの豊かな自然が残されていて、江戸時代の生活・風習・文化をそのまま伝承している集落のように見えた。故郷に帰ってきたような、とても懐かしい気持ちになったんだ。
それで、この鵜養を21世紀の日本の理想郷だととらえて、自然の恵みを受け調和する生き方を次の世代にどう残していけるかを考え、過疎化が進む山間集落を活性化するモデルにしようと積極的に関わることにしたんだ。
──具体的にはどういう関わり方をしたのですか?
秋田市役所の職員や鵜養を元気にしようという思いに共感して集まった地元の人々と一軒の空き家を拠点にして定期的に勉強会を開催するようになった。これが後に池田塾と呼ばれるようになったんだ。池田塾では地元の古老から明治、大正の日本の風景の中でどういう暮らしをしていたかを聞くことで、自然と調和した生き延びる知恵がたくさん学べたな。村の中でその学んだことを実践したりして、一時期は村がかなり活性化したんだよ。
鞆の浦での活動
──鵜養以外にも印象に残っている地域はありますか?
広島県の鞆の浦もすごくいいところだったなあ。あそこの港はね、いまだにコンクリート護岸一切なしで、江戸時代に作った石造りの港をそのまま使ってる日本唯一の港町なんだよ。潮の干満でいつでも船が着けられる雁木や常夜灯も現役で活躍してるすばらしい港だよね。石造りの港だからすごく水が綺麗で生き物が豊富なんだ。昔ながらの町並みもすごく風情があって、世界遺産にしてもいいくらいだと思うよ。
──鞆の浦といえば宮﨑駿さんの監督作品「崖の上のポニョ」のモデルとなったところで、一時期、湾を埋め立てて橋を建設する計画が持ち上がっていましたが中止になりましたよね。
そうそう。地元の長老たちや市・県の行政は港を埋め立てて橋を作りたがっていた。でも30、40代の若手は古い町並みを守りたいと反対していた。僕個人の立場としてはもちろん反対だった。鞆の浦に数十回通って両方の意見を徹底的に聞いたんだけど、推進派も反対派も鞆の浦をよくしたいという気持ちは同じだった。違うのはその手段で、それを決めるのはあくまでもそこに暮らしてる住民なんだよね。だから僕は1996年、朝日新聞の「鞆の浦の埋め立て・架橋をめぐって」の特集に「理想都市『鞆』マスタープラン」を発表したり、住民に向けて「敬愛する鞆の皆様へ」を書いていったん鞆の浦の問題から退いたんだ。その後、反対派の若手の活動が世論の支持を集めて、鞆の浦の埋め立て・架橋は中止になったんだ。本当によかったよねえ。日本の町づくりの原点を今に生かしている日本唯一の場所だからね。
ここでも池田塾をやって、空き家の民家を借りて修復して、鞆の浦で店を始める若い人たちのリフォームの相談に乗ったり、町おこしの相談にも乗ったりしてたんだよ。例えばここには江戸時代の井戸がいまだに残っていたんだけど、初めて行った時にその井戸がゴミ捨て場になってたからゴミを除去して掃除したら、清水が湧き出て今は自然の井戸水になっている。昔ながらの井戸替えの儀式をやったわけ。
それと、ここには昔から「鞆の浦に入ったら鞆の浦のルールに従え」というルールがあって、それができる人しか鞆の浦に入れなかった。江戸時代から独立した自治区のようなところだったんだな。そのルールにもちゃんと意味があるんだよね。やっぱりその土地にはその土地ならではの作法があってそれを守った方が安心・安全に楽しく暮らせるはずだからこの思想を今一度見直した方がいいと思うよ。
池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者
2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月6日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。
初出日:2016.06.22 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの