顔に大やけどを負う
──ケガはなかったのですか?
矢矧に命中した魚雷がすぐそばで爆発した時、とっさに軍手をした手で顔を覆ったけど、爆風で顔が焼けただれちゃってね。軍手は焼けてなくなって顔に手の跡がついていた。それほどの大やけどなら普通はケロイド状に火傷の痕が残るんだけど、佐世保に着いて海軍病院の軍医に診てもらったら最高の応急処置をしてますねと褒められた。軍医の言うことには、やけどを負った時、やるべきことは2つ。1つは患部から空気を遮断すること。もう1つは冷やすこと。これが応急処置だと。その時は激戦のまっただ中だからもちろんそんなことは何にもできなかったんだけど、その2つとも偶然にもやってたらしいんだな。
──どういうことですか?
1つ目は、魚雷を食らって海に投げ出されたんだけど、その海は沈没した船の重油であふれていたからやけどを負った顔も重油で覆われていたこと。2つ目は、まだ4月で海水の温度が低体温症になるほど冷たかったこと。この2つの偶然が最高の応急処置になったんだ。
ただ困ったのは眉毛が燃えてなくなったこと。眉毛ってなかなか生えないんだよ。救助されて半年間、鉛筆で眉毛を描いてた。それとね、長時間重油の海を漂っていたから毛穴に重油が染みこんじゃってなかなか取れなかった。重油って風呂に入って石鹸で洗ったくらいじゃ落ちないんだよ。海軍病院から退院して、数ヶ月経っても「池田は重油くさい」っていろんな人に言われたもんね(笑)。
潜水学校の教官に
──傷が癒えた後は?
もう乗る艦がないけどどうするんだろうと思ってたら、広島の大竹にあった潜水学校の教官を命じるという辞令が降りた。僕は潜水艦なんて乗ったこともないのにどうして教官をやれなんていうんだろうと思ってたら、当時の潜水学校では予備学生を特攻潜水艇の乗組員にするための教育をしてたんだ。
──特攻潜水艇といえば「回天」が有名ですがそのような船の乗組員ですか?
そうそう。海の特攻隊だよ。当時の日本は最後の最後まで戦争をやめようとしなかったからね。
原爆が落ちた日
その教官をしているときに原爆が落ちた。1945年8月6日午前8時15分。その日のこともよく覚えてるよ。潜水学校は爆心地から30kmくらい離れているんだけど、ちょうど朝の授業を始めるという時間だった。学校の自分の机で今日はどんな講義をしようかと考えていた時、突然部屋がビカッ! と光ったんだよ。どこかの電線がスパークしたのかと思って机の下をのぞいた瞬間、ズシーンと衝撃が来た。その時は海軍が極秘で近くの山をくり抜いて火薬庫を作っていたからそれが爆発したのかと思った。もちろん原爆なんて知らなかったからね。
僕らは内火艇を出して瀬戸内中を走り回って、ご遺体の収容作業に当たった。河口付近は流されてきた真っ黒焦げのご遺体であふれててね。まさに地獄だったよ。また、当時勤労動員で大勢の一般のおばさんたちが広島に行ってて、そういう人たちがみんな被曝して夕方、帰ってくるんだけどもう惨憺たる状態でね。そういう人たちのお世話もしたんだけど、みんな大やけどをして、皮膚が剥がれ落ちちゃっているんだよね。そこに白いものがたくさんついてる。よく見るとウジ虫でね。ウジ虫ってあっという間に湧くんだよ。そのウジ虫をね、傷口からずいぶん割り箸で取ったりした。そういう覚えがあるんですよ。
終戦
──終戦の日はどのように迎えたのですか?
潜水兵学校で12時から重大な放送があるから教官室に集まれというアナウンスがあった。でもあの頃、重大な放送といったって負け戦ばっかりしてたから、また気を引き締めてやれというようなくだらない訓示だろうと思ってサボっちゃった。それがあの終戦の詔勅だったんだ。だから直接は聞いてないんだよ。部下が伝えに来て初めて日本が負けたことを知ったんだ。
──その時はどういうお気持ちでしたか?
周りはみんな悔しがってたりショックを受けてたりしてたけど、僕はホッとしたね。なぜかというとね、教官をやってるときに、日曜日に外出するとそこらへんでまだ4、5歳の子どもたちが無邪気に遊んでるわけ。当時はよもや日本が敗北を認めるなんて想像すらしてなかったから、当然本土決戦になって敵がどんどん上陸してくるだろうと思っていた。そうなったとき、この子たちはどうなってしまうんだろうと、非常に子どもたちのことが気になったのをよく覚えてる。もうその子たちも70歳くらいになってるけどね(笑)。また、戦争が終わった以上、僕が教えていた生徒も特攻に出ていたずらに命を落とすこともない。だから「これで町の子どもたちも、若者たちも大丈夫だ」と思ってホッとしたんだよ。
そして、生き残ったからには国のため、死んでしまった戦友のために何かせにゃならんなと思ったね。
──大本営への恨みとか怒りとかはなかったんですか?
そんなものはないない(笑)。そもそも大本営なんて雲の上の存在であんまり知らないしね。僕らはひたすら海の上で使命を果たすということしか考えていなかったから。
池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者
2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月6日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。
初出日:2016.06.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの