わずか1年で連合艦隊全滅
──目の前で大和が沈むのを見たときはどういうお気持でしたか?
沖縄の前に、レイテ沖海戦で大和と双璧をなしていた巨大戦艦・武蔵がやられて、最後に大和でしょ。僕らが世界最高だと思っている戦艦が目の前でどんどん沈んでいく。それはね、ショックというよりは、さもありなんという感じだったよ。だって、当時の海戦はすでに空母、航空機の時代。マリアナ沖海戦以降、日本側には航空機がほとんどなかった。船を護衛してくれる航空機がいないってことは丸腰で戦いに赴くのと同じだからね。でも、航空機が戦艦なんかよりも強いと最初に真珠湾攻撃で証明したのは日本の方だったんだから皮肉なもんだよね。
そもそも沖縄海上特攻の時の彼我の戦力差は15倍。刀しかもっていない武士が近代兵器を装備した軍人に挑むようなもの。いかに大和が宮本武蔵級の最高の剣豪だとしても、機関銃をもった軍人相手ではどうにもならんよ。
僕の初めての実戦だったマリアナ沖海戦の時には勇壮を誇っていた日本帝国海軍の連合艦隊がわずか1年足らずでほぼ全滅するのを全部目の前で見たわけですよ。それがショックといえばショックだったかな。
──海に投げ出された後はどうやって生き延びたのですか?
僕自身も当然、助けられるとは全く思っていなかった。海面を漂っていたら米軍の航空機が僕たち目掛けて執拗に機銃掃射してきてね。この野郎と怒りが湧いてきた。僕らはそういうことは武士道に反すると思って絶対にしなかったからね。周りでもどんどん仲間が撃たれて、あるいは力尽きて海の底に沈んでいった。
僕には運よく当たらなかった。敵の航空機が去った後、最初は浮遊物に捕まっていたんだけど、徐々に浮力がなくなって使い物にならなくなり、立ち泳ぎをせざるをえなくなった。立泳ぎもけっこう疲れるんだよ。そのうちだんだん冷えて感覚がなくなってきてね。当時は4月だから海の水がすごく冷たくてね。苦しいという感覚すらもなくなるんだよ。ああ、凍死というのはこういうものか、こういう感じで死ぬのかなと静かに死を待つという心境だったな。だからもう立ち泳ぎもやめようかなと思ったんだけど、人間、なかなか自分からは死ねないもんだよね。それで結局5時間半くらい漂っていたところで、生き残っていた冬月という駆逐艦に救助された。作戦が中止になって、司令部から10隻中4隻残った船に生存者を救出して帰れという命令が出たんだ。船から救助ロープを降ろしてくれたんだけど、もう体力は限界だし、重油で滑るしでなかなか登れないんだよ。でも何度か挑戦して何とか登りきれた。その時点まで生きていたけど登りきれずに海中に沈んでいった仲間もいたよ。結局矢矧の乗組員のうち、446人が戦死してしまった。
──よく生き延びられましたね。
これはもう運だよね。本当に、運以外の何物でもないと思うよ。
矢矧が沈んだ日が自分の命日
──ロープを登りきって船に上がったときの心境は?
よかったとかほっとしたとか、これで助かったという安心の感情はこれっぽっちもなかったよ。負け戦というのはこういうもんかと、逆にみじめな気持ちだった。
──多くの戦友が亡くなったのに自分は生き残ってしまったというような感情ですか?
いや、そういうことよりもともかくみじめだったな。つらかったのは、船に救助はされても佐世保港に帰還する間に息絶えた戦友もたくさんいた。通常ならご遺体はちゃんとお棺に入れて陸揚げして埋葬するんだけど、矢矧に関することはすべて極秘事項で、一般の人に見せちゃいけないから大きな釘樽の中にご遺体を押し込めて物資を輸送しているように偽装して陸揚げしたんだ。死体とはわからないように。それが悲しかったな。
──沖縄海上特攻の様子も非常に克明に覚えていらっしゃいますが、やはり冷静に記録なさってたのですか?
うん。沖縄の時も非常によく見えていて、戦闘中も、矢矧が沈む時も、戦死者の状況も、海に放り投げられて泳いでいる時も実に客観的に見てよーくわかるわけ。この時も実戦に放り込まれたら修行なんてしなくても人間が変わるんだなという実感があったね。
──港に着いたときはどういうお気持ちでしたか?
佐世保港に着いた時、燃え尽きて抜け殻状態だった。20歳で死ぬ覚悟を決めて出撃したのに死にきれなくて、連合艦隊も全滅しちゃったからね。生きる目的を完全に失ってしまってた。矢矧が沈んだあの日が僕の命日で、これからの人生は余生だなって思った。まだ21歳だったけどね。
何かに生かされたとしか思えない
──マリアナ、レイテ、沖縄の三大海戦に全部参加して生き延びたのは奇跡としかいいようがないですよね。
そうね。これはちょっと考えられないよね。生きてるのが不思議なくらいだったよ。3つの海戦に全部出て最後は船もめちゃくちゃになって沈んでるのに生き残ってるんだからね。兵学校のクラスメートの中で僕1人ですよ。何かに生かされたとしか思えなかった。戦場での生き死には自分の意志でどうにかなるものじゃないからね。
池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者
2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月6日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。
初出日:2016.06.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの