上京して漫画系制作会社に就職
──上京後は具体的にどういう仕事をしていたのですか?
知り合いの漫画家が作った会社は漫画を使った結婚式ムービーや企業紹介ムービーを作る会社でした。漫画家は内気な人が多いから主に企業に漫画を売り込む営業としても働いてほしいと頼まれ、漫画家兼営業職として働き始めました。その時、名古屋で個人的にやっていた営業活動の経験が生きたんです。東京でもいろんな会社に行っては、営業活動して仕事を取っていました。でも完全歩合制で、その割合も低かったのでお小遣い程度の収入しか得られませんでした。当然とてもそれだけでは生活はできなかったので、繁華街の飲食店でアルバイトを始めました。
少しでも人脈を増やそうと、漫画家や編集者、記者などのマスコミ関係者が集まる店に通って、営業活動もしていたのですが、そんなある日、漫画家の東陽片岡先生の店のイベントに参加しました。私は東陽先生の作品は全巻持っているほどの大ファンだったので実際にお会いできて大感激。いろいろとお話させていただいて、そのお店で昭和歌謡を歌ったら東陽先生に気に入っていただけて、それ以来よくご一緒させていただくようになったんです。そしてある晩、東陽先生が新太郎師匠と引き会わせてくださって、弟子にしていただいたんです(※詳細は前編参照)。
ただ、流しになるタイミングはあまりよろしくなくて。というのはちょうどその頃、同業他社に転職して、新しく名刺を作ってスーツも新調して、社長と一緒に得意先の挨拶回りを済ませたところだったんです。でも絶対に師匠と一緒に流しをしたかったので、社長に「大変申し訳ないのですが、流しになるから会社を辞めます」と辞意を伝えました。
温かい社長
──社長の反応は?
第一声は「何だって? もう一回言ってごらん?」でした(笑)。でもその経緯や私の思いを話したら、「君はスポットライトを浴びる側の人間だから裏方の営業なんてやってる場合じゃない。流しを頑張りなさい」と認めてくれて、応援までしてくれたんです。でもせっかく新しい名刺をたくさん作っていただいたので、その分は配り切ろうといろんな会社を回って全部担当者に渡してきました。その会社から来た漫画の問い合わせは全部社長に繋いでいました。
──一応筋は通したわけですね。しかし社長はいい人ですね。
本当にいい人なんです。私が流しになってから荒木町に何回も来てくれたり、いろんな人を紹介してくれたりといまだにかわいがってもらってます。私は人の縁でここまで来たんですよね。自分がやりたいことをやるだけではなく、出会った人を大事にして頼まれたことを地道にやっていけばいろいろと繋がって、結局自分の行きたいところにたどり着けるということに気がつきました。それは財産ですよね。
──元々漫画家になるのが夢だったわけですが流しになったことについては?
実は漫画家になりたいと思う前、幼稚園の頃の夢は歌手になることだったんです。よく自宅のテーブルの上で歌っていたのですが、家族や友だちにほめられて喜んでいました。だから今は歌と似顔絵をやれているので、2つの夢が同時に叶っている最高な状態なんです。
歌う漫画家 ちえ[本名:宮本千愛(みやもと ちあい)]
愛知県生まれ。流し
大学時代から昭和歌謡のバンドを組んで歌い始める。集英社「YOU」で初めて描いた漫画が期待新人賞を受賞。プロの漫画家を目指し、小池一夫塾に1期生として入塾。漫画制作の技術を学ぶ。修了後、名古屋造形芸術大学短大に入学。24歳の時漫画家デビュー。地元名古屋の情報誌で連載しつつ、広告漫画などを描いていたが、漫画家としてのステップアップを求め、2010年上京。漫画を使った結婚式ムービーや企業紹介ムービーを作る会社で営業を1年経験した後、同業他社へ営業兼登録漫画家イラストレーターとして移籍。ちょうどその頃、ガロ系漫画家・東陽片岡氏に出会い、四谷荒木町で国内の最高齢流しの新太郎氏を紹介される。2012年7月、東陽氏の勧めで新太郎氏に弟子入りし、「しんちゃんちえちゃん」を結成。新太郎氏のマネージャー兼歌う漫画家ちえとして新太郎師匠と一緒に荒木町を流し歩き、演歌歌謡曲を歌ったり、お客の似顔絵を描いたりしている。その他にも「歌」「漫画」「イラスト」「切り紙」など多方面でアーティストとして活動中。ちえさんが作成したLINEスタンプ「流し新ちゃん&ちえちゃん」「流し新ちゃん&ちえちゃんその2」好評発売中。
流し紹介ムービー
- 『荒木町の新太郎』
- 『荒木町の夜』
- 流し以外のバンド活動記録
youtubeチャンネル
初出日:2016.05.16 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの