5つの活動
──現在、アーティストとしてどのような活動をしているのですか?
大きな活動の柱としては、1.壁画、2.個展、3.ライブペイント、4.絵のワークショップ、5.オーダーメイドの5つです。これ以外では時々、イベントや学校で講演をさせてもらっています。
──日々の生活ってどんな感じなのですか?
「絵描きってどうやって食べてるの?」ってよく聞かれます(笑)。僕は元々プライベートと仕事の境目がないというか、好きなことをしながらどうやって食べていけるかということをずっと考えてきました。元々旅行が好きというか、旅先でいろんな人と知り合うことが好きなんです。で、せっかくなら知り合った場所で何か描いてみようと思ったのが、国内、海外、いろんなところに出かけて作品を創っている今につながっているようなところがある。だから今もとにかく移動時間、どこかへ出かけている時間が多いんですよね。去年1年間どのくらい自宅にいたかを調べてみると半分はいなかった(笑)。以前は海外に長期間行ってましたが、今は子どもが生まれたので滞在時間は短くなったけれどその分回数が増えました。
──壁画はどんな場所でどのようにして描いているのでしょう。
国内外の学校や企業、お店、公園、空港などで描いています。壁画のタイプとしては2つあって、1つは僕自身が好きな場所に行って好きなように描くものと、もう1つは企業や団体などから依頼されて仕事として描くものです。
前者の方の活動自体は約10年前から取り組んでいてこれまでフィリピンやケニアで描いてきました。個人的な活動なので渡航費などの経費は自分で捻出するか、集めていました。壁画は現地の子どもたちと一緒に描くと決めています。僕が描くことで彼らを引っ張っている部分もあるので、僕も描いていますが、そのほとんどは彼らの手で描かれています。彼らが描いたものに少し手を加えて整えていくような感じです。僕は全体を見てみんなで1つの大きな絵を完成させるまでを導く役割なんです。例えばどう描いていいかわからずに動きが止まっている子がいたら話しかけて描けるように促したり、その子の得意な部分を描かせるように導いたり、みんなが持ち味を発揮して楽しく描けるように動いています。音楽でいえばオーケストラの指揮者のような役割ですかね。
ケニアのスラム街に壁画を描く
──今までで一番印象的な壁画は?
2006年に初めてケニアの「キベラスラム」にある「マゴソスクール」という小学校に行って描いた壁画ですね。キベラスラムというのはケニアの首都、ナイロビにある東アフリカ最大のスラム街で、マゴソスクールは1999年にリリアン・ワガラというケニア人女性が開校した、キベラスラムに住む貧困児童が通う小学校です。ケニアは学歴社会なので、彼らが貧困から抜け出すためには、学校で勉強し、高校、大学に進学するしかありません。それで自身もスラム出身のリリアンが「子どもたちに勉強する機会を与えたい」という強い思いから、自分が暮らす長屋の一室にストリートチルドレンを集め、寺子屋のような形で始めたのがマゴソスクールなんです。 徐々にその場所は両親を亡くしたり、虐待されたり、行き場のない子どもたちの駆け込み寺となり、年々人数が増え、現在約500名が通う小学校となっています。
当時はロンドンにいたのですが、そのマゴソスクールのことをたまたま観ていたテレビ番組で知り、つらい境遇にある子どもたちを僕の描く絵で少しでも明るく元気にしたい、学校を楽しい場所にしたいと思ったのが最初のきっかけでした。その後、いろいろ調べたり、現地在住の日本人のライターさんが協力してくださったりして、マゴソスクールにコンタクトを取ることができ、校長に壁画を描かせてほしいとお願いしました。すると快諾してもらったので、ケニアに飛んだんです。
──テレビ番組を観ただけで現地と連絡取ってケニアまで行くってすごいですね。
才能にあふれた、社会的な評価も高いアーティストたちと勝負しようと思ったら、彼らとは違う切り口で表現しなければならないとずっと考えていたんです。そのためには彼らがやらないことをやるしかない。社会的に注目されるためにはただアトリエで絵を描いているだけではダメ。待っていてもチャンスは来ないからどんどん自分から行動して、自分の未来を自分で切り拓いていかねばならないと自分に言い聞かせていたので、テレビ番組を観たときにすぐに連絡する方法を調べたんです。
ケニアの子どもたちを恐怖のどん底に
──ケニアの小学校で描いた壁画に対する子どもたちのリアクションは?
いや、それが最初に描いた絵が大失敗してしまって。その2年前にフィリピンの孤児院で描いたドラゴンの壁画が子どもたちに大人気だったので、マゴソスクールでもきっと喜んでもらえるだろうとめちゃめちゃでかいドラゴンを描いたんです。そしたら子どもたちがドラゴンの絵を恐がって泣き出したり、中には恐怖のあまり学校に来れなくなった子もいて、職員会議にかかるほどの大問題になっちゃったんです。
なぜそうなってしまったのか、先生に話を聞くとドラゴンという架空の生き物はケニアにはなかったんです。そのかわり、似た姿の実在する生物としてアナコンダがいた。羊を丸呑みするような巨大な蛇で、現地の人たちに恐れられていました。そんなこととは露知らず、口を大きく開けてるドラゴンの絵なんて描いちゃったものだから、子どもが登校拒否になるほど恐がってしまい、先生からはそんな絵を描かないでくれと苦情を言われることになってしまったんです。
今までは自分が好きなものを好きなだけ描いていい環境にいて、それが絵を描くことだと思っていたのですが、公共の場や人が生活する場に描く絵はそういう考えだけではダメなんだなと痛感しました。
ケガの功名で今のスタイルが確立
──それからどうしたのですか?
でもドラゴンの絵を消して新しい絵を描き直そうにも滞在時間のほとんどをドラゴンに費やしてしまったので、もうそんな時間はありません。そこで子どもたちが描きたい絵を子どもたちと一緒に描くことにして、ライオンやバオバブの木の壁画を描きました。完成したときは、みんなめちゃめちゃ喜んでくれて本当によかったです(笑)。後で、この壁画を描いたことで子どもたちが以前よりも明るく元気になったと先生方から聞きました。
僕自身にとってもとても大きなプラスとなりました。それまでは絵描きとして自分の絵に他人の手を入れさせるのはダメだと思っていたし、もちろん僕が全部自分で描き直した方が絵としてのクオリティは上がるのは明白です。でも、この絵の意味は何なんだろうと考えたとき、僕の満足感だけのためにあるべきではなくて、そこで生活している人たちがハッピーになることが一番大事なんじゃないかなと思ったんです。また、絵が完成したとき、みんなでいい絵ができた! と喜びを分かちあったのですが、そういう一体感も素晴らしいと思いました。このとき以来、壁画をみんなで描くようになったので、今に繋がる大きな気付きとなったんです。その後、ケニアの同じ小学校に2010年、2015年と行って壁画を描いてます。
──そんなに続いているということは現地の人に相当喜ばれたってことですよね。
そうですね。2010年の2度目のケニア壁画プロジェクトの時は向こうからまた壁画を描いてくれと頼まれて描きに行ったんです。2006年の壁画で現地の人たちとめちゃめちゃ仲良くなって、帰国してからも継続的に連絡を取り合っていました。2006年当時はまだ生徒が150人くらいしかいなかったのですが、2010年頃になると400人くらいに増えて新しい校舎もできたので、その校舎の壁にまた絵を描いてくれないかという依頼が来たんです。そのときは最初から子どもたちと一緒に壁画を描こうと決めて描きました。この時も大成功でした。
イベントを開催して資金を集める
──ケニアまで行って描くとなると費用もかなりかかると思うのですが、どうしているのですか?
先程もお話しましたが、自分が描きたくて描くのですから、渡航費や滞在費などの費用は基本的に全部自分で負担しなければなりません。そのためにイベントを開催して資金を集めたり、スポンサーを募ったりしています。最近ではこの壁画プロジェクトに賛同して、支援してくれる人が出始めています。
このように、毎回イベントごとにいろんな人に少しずつお金を出してもらうという集め方に加え、大きな団体や組織からある程度まとまったお金をいただくという、安定的に資金を得る形にしたいと思っています。
ミヤザキケンスケ(みやざき けんすけ)
1978年佐賀市生まれ。トータルペインター。
高校の頃から本格的に絵を学び始め、筑波大学芸術専門学群、筑波大学修士課程芸術研究科を修了。在学中にフィリピンの孤児院に壁画制作、テレビ番組「あいのり」に出演。世界を周りながら絵を描く。その後、イギリス(ロンドン)へ渡り、2年間クラブやライブハウスでライブペイントを行うなどのアート制作に取り組む。帰国後、東京を拠点に活動。NHK「熱中時間」にて3年間ライブペインターとして出演。この他、ケニアのスラム街の壁画プロジェクト(2006年、2010年、2014年)、東北支援プロジェクト(2011年)など、「現地の人々と共同で作品を制作する」活動スタイルで注目を集める。現在、「Over The Wall」というチームを立ち上げ、世界中で壁画を残す活動に取り組んでいる。一女の父として家事・育児に積極的に取り組むイクメンでもある。
初出日:2016.02.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの