バリでの暮らし
──毎日何をして暮らしていたんですか?
基本的に海で泳いだりサーフィンをしたりして遊んでました。ビーチにいろんな人がいろんなものを売りに来るので、彼らとやりとりするのも楽しかったね。そしてそういう人たちが夜になるとバリダンスの踊り子として踊っていたりガムランを演奏してるの。もちろんそのバリダンスっていうのは観光客向けのホテルでやってるようなのではなく、自分たちの儀式としてやっている本物。そんなバリの人の暮らしにほれ込んだの。あと、ヒッピーや旅行者のコミュニティができてたから、彼らとの付き合いも楽しかったわ。全然知らない世界中の人と知り合えてすごくおもしろい話しが聞けるんだ。
──生活費はどうしていたんですか? 貯金もそんなにもたないですよね。
観光ビザだから3ヶ月が経ってビザが切れてお金もなくなってきたけど、当時のバリには仕事なんてないしね。だからバリから一番近くてお金を稼げるオーストラリアやニュージーランドに行ってレストランや農園でアルバイトをしてました。その後もお金がなくなると近くの国に出稼ぎに行って、ある程度お金が貯まったらバリに戻ってのんびり遊ぶという生活を繰り返していたの。
──そもそも英語はできたんですか?
元々神戸育ちなので周りに外国人の友だちがいっぱいいて日常的に英語を聞き慣れていたから、だいたい何を喋ってるかはわかるレベルでした。でもやっぱり最初の頃はあんまりわからないし喋れないしで、困ったというよりは寂しかったかな。だから一所懸命人の話を聞いたり、分からない単語はあとで辞書で調べたり、やっぱりそれなりに努力しないとね。そしてとにかく声に出して喋る、自分の意志を伝える。間違っていれば周りの人が直してくれます。そうやって段々うまくなっていくんだよね。
パートナーとの出会い、出産
そうこうしているうちに、23歳頃、仕事を探しに行ったタイのバンコクでアメリカ人の男性と出会って付き合うことになりました。その時彼はバリへ行く途中だったから一緒に電車とバスと船を乗り継いでバリまで行って、しばらく一緒に暮らしたのね。その間にちゃんとどこかに拠点を置いて一緒に生活しようということになって、常夏の島で波があって暮らしやすいところということで、いろんな候補地が出たけれど、結果的にハワイに住むことにしました。
でもハワイは物価が高くてある程度お金がないと生活できないから、その資金を貯めるためにしばらく各自稼げるところでお金を稼ごうということになって、私は5年ぶりに日本に帰ることにしたの。海外で知り合ったイギリス人女性に新宿歌舞伎町のクラブを紹介してもらって、私もホステスをやることにしたの。その店は外国人ホステスの方が日給が高かったから、私は日系アメリカ人ということにして、お客さんは日本人ばっかりなんだけど日本語がわからないふりをして、片言の日本語を喋ってた(笑)。無事、日本人だとバレないままそのホステスを4ヶ月やって100万円くらい貯めました。めちゃめちゃ頑張った(笑)。
その貯めたお金を持ってハワイに渡って、彼と暮らし始めて、数ヶ月後に妊娠したの。娘が産まれたのは1975年、私が24歳のとき。以降は生活の拠点をハワイに置いて、家族3人でハワイとバリを3、4ヶ月ごとに行ったり来たりの生活を送っていました。
でも娘が3、4歳くらいのときに彼とはもう一緒に暮らしていけないとなって別れることにしたの。正式には結婚もしてなかったんだけどね。
結婚しなかった理由
──結婚しなかったのはなぜですか?
当時、私たちの間ではわざわざ結婚する人はほとんどいなかった。何年も一緒に住んでいても子どもがいてもね。私は体質的に反体制派というか、政府が勝手に決めたルールに縛られ、自由を失うことに反発していたんだね。結婚なんて単なる制度上の問題であって、別に結婚してなくても愛し合って一緒に暮らしていればそれでいいじゃんと思ってた。だから役場に行って婚姻届を提出するとか、見世物のような結婚式や披露宴をやるとかにすごく抵抗を感じていたんだよね(笑)。同棲、(今は事実婚っていうんだね)は、一緒にいたくなくなれば、いつでも別れられるし、毎瞬毎瞬一緒にいたいという気持ちの継続で、その方が純粋だと思ってた。でも結婚は当人同士以外の要素が大きくて、もうダメ、別れたいと思っても、親や世間のしがらみからそう簡単に別れられなくて、ズルズルと惰性で一緒に暮らしていたり、なんか純粋じゃない気がしていた。もちろんそうじゃないすてきなカップルもいっぱいいるんだけど、その頃はそう思っていたんだよね。
──子どものことを考えたら籍を入れた方がいいんじゃないかとは考えなかったんですか?
考えなかったなあ。今でもそれがそんなに大事だとか必要だとかは思わない。それぞれのカップルがいいと思う方法でいいと思う。籍を入れても入れなくてもいいし、夫婦別姓でもいいし、結婚しないまま子どもを育ててずっと一緒にいてもいいし、別れて誰か他の人と暮らしてもいいし、制度に左右されず暮らしたい人と暮らせればいいんじゃないかな。
川崎直美(かわさき なおみ)
1951年神戸市生まれ。レパスマニス店主/地域活動家
神戸に暮らしていた10代は、ヒッピー文化の影響を受け自由な生き方にあこがれる。16歳で高校中退後、アルバイト生活。大阪万博のアルバイトで知り合ったスウェーデン人の女性に触発されて20歳のとき世界一周の旅へ。途中で立ち寄ったバリにハマり、バリを拠点に生活スタート。23歳のときタイで出会ったアメリカ人男性と恋に落ち、24歳で娘を出産。生活拠点をハワイに移し、バリとハワイを行き来する暮らし。28歳のときパートナーと離別、日本に帰国。様々なアルバイトを経験後、東京で外国人タレントのマネジメント事務所で働くようになる。計2社で約4年勤務した後に自ら外国人タレントのマネジメント事務所を起業。バブル景気に乗り、大成功を収めるも、12年経営した後に廃業。1994年単身、アメリカに渡り古い中古車を購入し、中西部のネイティブアメリカンの土地をめぐる。半年間で1万6000キロを走破。帰国後は逗子に移住。渋谷に自然生活雑貨店「キラ・テラ」を開店。2年後、大手自然食材企業に吸収、社員となり、横浜の店で勤務。12年勤めた後、退社。地域活動にのめり込む。2011年に葉山に移住、自然生活雑貨店「レパスマニス」開店。現在はレパスマニス店主を務めるかたわら、葉山町をみんなが暮らしやすくする町にするために様々な活動に尽力中。
初出日:2016.01.12 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの