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2014.12.01  取材・文/山下久猛 撮影/山田泰三

日本で初めて有機農法に取り組む

──佐藤さんは日本の有機農法の草分けとして、「有機農業マイスター」の称号持ち、日本有機農業研究会のメンバーとして、現在も有機畜産の推進に関わっているそうですね。有機農法に取り組まれた経緯を教えてください。

私は大正9年(1920年)に雲南市木次町の農家の長男として生まれました。小学生の時から農作業を手伝い、卒業後、父の「農家の長男に学問はいらない」という方針から本格的に農作業をやるようになりました。

1937年に始まった日中戦争で、20歳くらいのときに兵士として中国本土へと派遣され、約6年間、中国本土で軍隊生活を送りました。戦争が終結して7カ月少し経って故郷の木次に帰り、再び百姓として農作業をやるようになりました。しかし戦後、養蚕や炭焼きの需要が激減したので、35歳のとき家督を受け継いだのを機に農作物を作るかたわら、3人の仲間と一緒に酪農も始めることにしたんです。

しかし、単なる食材の生産だけでは都市の奴隷になり、農民が自立できません。そこで酪農を一緒に始めた仲間を含む6人で、木次町内の牛乳販売組合と業務提携し、生産から加工処理までを一貫して手がける木次乳業を設立し、「木次牛乳」の名称で販売することを始めました。

酪農を始めるにあたっては、確かに牛乳は昔から日本人が飲んでいたものではないけれど、日本人にはカルシウムとタンパク質が不足しているので必要な飲み物だろう、ならばできるだけ雲南の風土にふさわしい健康な酪農をやってみようと思いました。

元々飼っていた4頭の和牛と一緒にホルスタインを購入し酪農を始めました。しかし、当時は農薬や化学肥料を大量に使う最先端の近代農業の手法を導入していたのですが、牛たちが次々と乳房炎、繁殖障害、起立不能などの原因不明の病気になり、死んでいったんです。

木次乳業が運営している日登牧場

当時一緒に農業や酪農をやっていた大坂貞利君が、この原因は牛に食べさせる牧草を化学肥料で栽培しているからじゃないかと指摘しました。私たちは小規模経営で毎日牛の様子をよく見ていたので、そういう変化に比較的早く気づけたんです。

確かに化学肥料を使うと、農作業は楽になり、あぜの草も青々して人の目からはおいしそうに見えます。ところがその草を食べた牛が病気になったり、母乳から残留性のある農薬が検出されるなど、いろいろな問題が見えてきました。

それで1960年頃、牧草は化学肥料や農薬を一切使わない自然栽培に戻すことにしました。無農薬の有機農法に変えてから、病気にかかる牛は激減し、とても元気になって安定して高い品質の牛乳をたくさん出すようになりました。同時に米作りも無農薬の有機農法に切り替えました。


──やはり有機農法で作った作物はそこまで味が違うのでしょうか。

本来、土の中の栄養は無制限なので、栄養の奪い合いはありません。だから有機農法であまり土壌が肥沃になりすぎても作物はダメになります。あまり栄養がない土地で懸命に根を張り、栄養分を吸い上げようとするから作物の味も深くなります。だから作物に横着させず、多少努力させる。一方でストレスはなくす。そこの兼ね合いが百姓の腕の見せどころなんです。人間も苦労や困難を乗り越えることで成長し、強くなり、味わいも深くなります。それと同じです。

佐藤忠吉(さとう ちゅうきち)
1920年島根県生まれ。木次乳業創業者。現在は相談役。

小学校卒業後、家業の農業に従事。1941年から6年間、中国本土で軍隊生活を送る。1955年から仲間と牛乳処理販売を始め1969年に木次乳業(有)社長に就任。1950年代から有機農業に取り組み、1972年木次有機農業研究会を立ち上げ、地域内自給にも取り組む。1978日本で初めてパスチャライズ(低温殺菌牛乳)牛乳の生産・販売に成功。1989年、自社牧場として「日登牧場」を開設。日本で初めてブラウンスイス種を農林水産省から乳牛として認めてもらい、中山間地を牛の力で開発するモデル牧場となる。1993年、かつての日本にたくさんあった、小さな集落での相互扶助的な生活、教育も福祉も遊びすら含めて生活・生産のすべてを共有していた「地域自給に基づいた集落共同体」の復活を目指しゆるやかな共同体を発足。野菜を作る農園、国産大豆を原材料とする豆腐工房、ぶどう園とワインエ場などが集まる「食の杜」を拠点に、平飼いの鶏が産む有精卵、素材や水、加工法にこだわった醤油、酒、食用油、パンなどの生産者をネットワーク。生涯一「百姓」として、地域自給、村落共同体の再生に取り組んでいる。その実践は、農村の保健・医療・福祉の向上にも尽くしたとして、日本農村医学会の「日本農業新聞医学賞」を受賞。2012年雲南市誕生後、初の名誉市民となった。

初出日:2014.12.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの