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2014.12.01  取材・文/山下久猛 撮影/山田泰三

未完の百姓として

──百姓といえば、佐藤さんの名刺の肩書にも百姓と書かれていますが、農家じゃなくて百姓なんですね。

百姓は百の作物を作る人。米作り、野菜作りはもとより、微生物学、栄養学、気象・天文学などに通じる知恵を駆使し、土作りに始まって炭焼き、牛飼い、養蚕、大工までをこなす人間です。そうした百姓が集まり地域自給、村落共同体を再生しようと、木次の自然を大切にしながら仲間作りを続けてきたわけですが、私なぞはまだまだ未完の百姓です。

日本初のパスチャライズ牛乳

──佐藤さんは1978年、日本で初めて低温殺菌牛乳のパスチャライズ牛乳の開発・販売にも成功したそうですね。なぜパスチャライズ牛乳を作ろうと思ったのですか?

有機農法に取り組み始めた頃、牛乳が高熱処理で大量生産される現状に疑問を感じ始めました。まず、当時の行政の方針は、日本の牧場は高温多湿で細菌も多く、衛生観念もしっかりしていなかったので、牛乳は滅菌でなく高温で殺菌をしなくてはいけないというものでした。

また、そもそも牛乳の中にはさまざまな細菌が存在するので高熱殺菌処理をしないと長期保存がきかず、すぐ腐ります。これでは大量生産・大量販売できないので、保存性・流通性を高めるために120度の超高温で殺菌しているわけです。しかし、このような超高温熱処理をすると牛乳中のタンパク質やカルシウムなどの栄養素が変性し、飲んでもうまく消化吸収されなくなってしまいます。

一方、太古の昔から牛乳を飲む文化があるヨーロッパでは、パスチャライズ牛乳が主流です。パスチャライズ牛乳とは、フランスの細菌学者パスツールが発明した殺菌法によるもので、牛乳中の栄養成分や風味を損なうことなく、有害な細菌だけを死滅させることができます。この製法をパスチャリゼーションといいます。

酪農の先進地である北欧のように、できるだけ生に近い牛乳を提供したいという思いが強くなり、1975年(昭和50年)、本格的にパスチャライズ牛乳の開発をスタートしました。

自らの体で実験して安全性を証明

──日本では誰もやったことのないことなだけにご苦労もたくさんあったと思いますが、どんなことがたいへんでしたか?

言うまでもないことですが、一番の問題は品質と安全性との両立でした。栄養素を変性させず、悪い菌だけを取り除くのがかなり難しかった。

パスチャリゼーションは単に低い温度で滅菌するという方法ではありません。超高温熱処理は120℃以上で2~3秒ですが、国際乳業連盟の定めた方法は63℃で30分、あるいは72℃で15秒です。しかし、この方法ではどうしても100分の1程度は細菌が残ってしまう。善良な乳酸菌なら多ければ多いいほどいいのですが、何かの間違いで悪い菌が残ってしまったらたいへんなことになります。そのためには原乳をそのまま飲んでも問題ないくらいに、原乳の質を向上させることに全力で取り組みました。

まずは3年間、自分たちの体で生体実験をしました。牛から取った生乳を原料に、いろいろな条件でパスチャリゼーション処理したものを孵卵器で二昼夜48時間発酵させたものを毎日飲んで味や安全性を確かめました。その結果、原乳の質には、エサ、水、牛舎の衛生、飼い主の心の動きまで現れてくるほど、微妙な問題だと分かったので、提携していた酪農家には飼料から水、乳搾りの仕方、牛舎の管理法まで徹底して改善してもらい、細菌数を細かく調べてさらなる乳質向上に尽力しました。仲間の一人の大坂君は自分の赤子にも原乳を飲ませていました。それほど自信のある原乳になっていたのです。その結果、消費者にも安全性と味が認められ、開発開始から3年後の1975年(昭和50年)、日本で初めてパスチャライズ牛乳の流通化に成功したわけです。

でも基本的に日本人は牛乳を飲まなくていいと思っています。牛乳不要論が出るのは当たり前のことです。

佐藤忠吉(さとう ちゅうきち)
1920年島根県生まれ。木次乳業創業者。現在は相談役。

小学校卒業後、家業の農業に従事。1941年から6年間、中国本土で軍隊生活を送る。1955年から仲間と牛乳処理販売を始め1969年に木次乳業(有)社長に就任。1950年代から有機農業に取り組み、1972年木次有機農業研究会を立ち上げ、地域内自給にも取り組む。1978日本で初めてパスチャライズ(低温殺菌牛乳)牛乳の生産・販売に成功。1989年、自社牧場として「日登牧場」を開設。日本で初めてブラウンスイス種を農林水産省から乳牛として認めてもらい、中山間地を牛の力で開発するモデル牧場となる。1993年、かつての日本にたくさんあった、小さな集落での相互扶助的な生活、教育も福祉も遊びすら含めて生活・生産のすべてを共有していた「地域自給に基づいた集落共同体」の復活を目指しゆるやかな共同体を発足。野菜を作る農園、国産大豆を原材料とする豆腐工房、ぶどう園とワインエ場などが集まる「食の杜」を拠点に、平飼いの鶏が産む有精卵、素材や水、加工法にこだわった醤油、酒、食用油、パンなどの生産者をネットワーク。生涯一「百姓」として、地域自給、村落共同体の再生に取り組んでいる。その実践は、農村の保健・医療・福祉の向上にも尽くしたとして、日本農村医学会の「日本農業新聞医学賞」を受賞。2012年雲南市誕生後、初の名誉市民となった。

初出日:2014.12.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの