「子育てシェア」ローンチの経緯
──「子育てシェア」のアプリ・システム開発の方はどうやって進めていったのですか?
保険のめどが立ったのと同じ頃、知人に教えてもらった開発会社に行ってこんなシステムを作ってほしいと言ったら、「その前に、ちゃんと続けられるビジネスなのか、続ける覚悟があるのかがわからないと開発業務は受けられない。それがわかるまでは何回でも話を聞きますよ」というので、それから半年間毎週水曜日にその会社に行って2時間みっちり代表2人を拘束して、こんな社会を実現するためにこんなシステムを作りたいんだという話から、製作費の細かい部分まで詰めていきました。そして翌2013年2月に正式に開発をお願いしますと発注したんです。ちなみにその開発会社ではいまだに私とのお見合い期間が1番長いらしいです(笑)。
──半年間みっちり話し合って理想のものができたわけですか?
開発の仕方自体が通常とは違っていたというか、一般的にインターネットサービスを作る場合、最初から設計をきちんとして、システムをしっかり作り込んで完成してからローンチするのですが、そのやり方では開発にもすごく時間がかかるので、まずは最低限の機能だけ作ってリリースして、その後は細かい機能ができたらその都度追加したり削除したりを繰り返す、リーンスタートアップという方式で開発していきました。
ローンチで潮目が変わった
その子育てシェアの最初のローンチが2013年4月で、顔見知りとしかつながらない、1時間ワンコインのお礼ルールで登録料も手数料も一切かからないのに保険付きの頼り合いの仕組みという仕様でローンチした瞬間が、AsMamaの歴史の中で最初に潮目が変わったと感じた瞬間ですね。
これまで行政や地域の活動家に子育てに困っている人たちのために一緒に何かやりませんかと話をしても、「頼り合いなんて勧めて、万が一事故でも起こったら誰が責任を取るんですか?」とか「イベント屋さん?」とか、いろいろ言われてきました。でもこの子育てシェアが完成したことで、「支援したいと思う人たちもこの仕組みを使えば、万が一の時でも保険がついてるので生活が脅かされることはありません」とか「イベントをたくさん開催しているのも、この仕組みを知ってもらう機会をつくるのと同時に、私たちは支援したいと思う企業と生活者の方々の出会いの場もつくり、人々の生活が豊かになることに貢献したいと思っているからです」としっかり言えるようになったんです。さらに、経産省からは経済的・経営的支援を得られたり、横浜市のウーマンビジネスプランコンテストで最優秀賞を獲得するなど、世の中の注目度合いも変わってきたんです。
子育てシェアをローンチしてから登録者数も右肩上がりに増えていきました。それに伴い、より多岐にわたるユーザーのニーズがわかるようになり、その都度システム変更も繰り返してきました。登録者は現在も順調に増え続けています。
逆境を乗り越えられる理由
──1人で1000人分のアンケートや保険導入の件など、一般常識では不可能だと思うようなことにチャレンジし、高い壁にぶつかってもう無理かもと思ったこともありましたよね。なぜ最後まであきらめずに乗り越えられたのでしょう。
それは、この仕事に限った話ではなくて、私自身、何かをあきらめるとか我慢するという機能が壊れてるんだと思うんですよね(笑)。一度何かをやり始めたらトコトンやるか、一瞬にして飽きるかのどちらか。不可能に思えることでも絶対やってできないことはないはずだとか、針の穴を通すようなチャレンジでも絶対どこかに穴はあるはずだと思うと、そう簡単にあきらめられないんです。無駄や非効率なことが嫌いなので、そういうことには一切やる気が出ないですけどね(笑)。
──その性格はどのように育まれたのでしょうか。
親の育て方の影響は大きいかもしれませんね。幼い頃からいったん何かをやり始めたら、中途半端なところでやめることをよしとはされませんでした。また、小学4年生から高校生まで、剣道をやっていたことで精神的にも体力的にも鍛えられたことも大きかったと思います。中学生の頃、地区大会で優勝したあとも、強くなりたい一心で警察道場を回り続けたこともありました。女子中学生の私が男性の警察剣士に勝てるわけないんですが、何度も挑んでは跳ね飛ばされながら、そのたびに立って泣き声になりながらでも「お願いします!」とかかっていく。お相手も2、3時間稽古をつけてくださると、最後は竹刀をおろして打たせてくれるんです。稽古が終わると、もう手も足も上がらない状態なこともたびたびでしたが、こういう稽古を通して自分の限界を自分で決めない、という思考や、ど根性やあきらめない心が培われたんじゃないかと。だから剣道が今の私を作ってくれた原点だと思いますね。それ以前は、言いたいことも言えない子だった、と叔母から聞いたことがありました。
──仕事のやりがいはどんなところにありますか?
いろいろありますが、最大のやりがいは従業員がAsMamaで働いててよかったと思ってくれること。その次は子育てシェアを利用している人たちの生活が豊かになってると感じられることですね。あとはAsMamaのクライアント企業って、私たちのポテンシャルを信じて、先行投資的に付き合ってくださっている企業が多いと思うんですが、彼らからAsMamaと一緒に何かをやりたいと言われることですね。
いつでも、どこでも自由に、自律して働く
──現在の甲田さんの働き方について教えてください。
当社はフレックス制度で、リモートワークOKなので、出社の義務はなく、事務所にもいたりいなかったりだし、外にいる時間も長いです。よく「典型的な一日の過ごし方は?」などと聞かれますが、日によってやってることも全然違うんです。
そもそもどこまでが仕事でどこからがプライベートなのかわからないというか、オンもオフもない生活です。仕事は仕事で思いっきり集中してやるよう心掛けていますし、プライベートで遊ぶときは思いっきり遊びます。でも、仕事をしながらでも家事や子どものことを考えてはいるし、その逆もまたしかりで、家でテレビを見ていても頭の片隅には常に仕事のことを考えているので、一日中寸暇を惜しんで仕事と家事、育児と趣味、遊びをしてるという感じですね。これだけ仕事をしてたら家事や育児はしないのでは? と聞かれることもありますが、基本的に毎日3食自炊でお昼も会食でもない限りお弁当持ちです。娘も給食がない学校なので、幼稚園のときから毎日、手作りのお弁当を持たせていて、お弁当作りは一日の始まりの張り合いでもあります。
──では現在のご自身の働き方は理想的だと言えますか?
そうですね。ただ、今年で42歳になるんですが、若いころに比べると体力の衰えは正直感じますし、社長の私自身がフル稼働という状態ではなく、もっとうまく社員教育や育成に時間と労力を割いていきたいと考えています。また、創業者が、多様なライフスタイルや価値観、ライフステージの人でも受け入れたいと願っているにも関わらず、自身の働き方が社員へのプレッシャーになるようでは困るので、最近は夜中に仕事のメールを書いても下書きフォルダに入れて朝に送るようにするとか、土日はパソコンを閉じて子どもと向き合う時間を増やしたり、プライベートだけの時間もしっかり取るように意識してますね。
AsMamaの働き方
──会社としての働き方のポリシーは?
現在、全国各地にフルタイム社員が23人いて、パート・アルバイト・業務委託等で同じミッション・ビジョンを共有して活躍する認定サポーターが600人以上いますが、みんな私と同じく日々のタイムスケジュールはバラバラで、住むところも全国各地バラバラ。何時から何時まで働くというのは比較的自由で、基本的に個人の裁量に任せています。リモートワークも子連れで出社もOKなので、「子どもが熱を出したので在宅にします」とか「今日は息子を連れて出社します」なんていうメールも頻繁に飛び交ってます。オフィスに1度も来たことがないスタッフも半数以上いるし、海外在住のスタッフもいます。その人たちは自宅で普通に仕事をしてます。だから大きなオフィスも必要なく、遠方スタッフが上京した時には宿泊ができたり、子連れの打ち合わせもしやすいようにとマンション最上階でメゾネット付きの小さな家のようなオフィスにしてるんです。最初は小さなオフィスに私自身が恐縮していましたが、大企業の大きなオフィスビルからご来社いただく方々からも「明るくて素敵なオフィスですね」と言っていただくことも多く、今のところ気に入っています。社員が増えてきて、集まってミーティングをするときなどはちょっと手狭になってきましたが(笑)。
甲田恵子(こうだ けいこ)
1975年大阪府生まれ。株式会社AsMama 代表取締役CEO
関西外語大学英米語学科入学後、フロリダアトランティック大学留学を経て環境省庁の外郭団体である特殊法人環境事業団に入社。役員秘書と国際協力関連業務に従事。2000年、ニフティ株式会社入社。マーケティング・渉外・IRなどを担当。2007年、ベンチャーインキュベーション会社、ngi group株式会社に入社し、広報・IR室長に。2009年3月退社。同年11月、33歳の時に誰もが育児も仕事もやりたいことも思い通りにかなえられる社会の実現を目指し、株式会社AsMamaを創設、代表取締役CEOに就任。2013年、育児を頼り合える仕組み「子育てシェア」をローンチ。多くの子育て世代の支持を得ている。著書に『ワンコインの子育てシェアが社会を変える!! 』(合同フォレスト刊)がある。
初出日:2017.04.27 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの