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2017.04.03  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

原点となったアメリカ留学

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──ここからはなぜ甲田さんがAsMamaを起業して子育てシェアのようなサービスを始めたのか、その歩みをお聞かせください。学生時代からこういう社会をよりよくしたいという思いを持っていたのですか?

正直、そこまでは考えていなかったです。ただ、大学進学を考える時には、せっかく親に高い学費を払ってまで大学に行かせてもらうのなら、私のその後の人生が劇的に変わるようなものを身につけられる大学に入ろうと思いました。いろいろ考えた結果、外国語大学に入ったら英語が喋れるようになって、自分の活躍できるフィールドが世界に広がるだろうと思ったのと、大阪にあった実家から通える範囲の大学ということで関西外国語大学に入りました。本気で英語を身につけたかったので、全学年で少数枠しかなかった推薦の留学生枠に入るために必死に勉強して合格し、3回生と4回生の1年強、アメリカの大学に留学しました。


──留学してどうでしたか?

すごくよかったですよ。というのは、アメリカの大学ではちょうどこれからの自分のキャリアを考える、という就職活動を迎えるころに、自分はこれからどんなキャリアを歩みたいか、どんなふうに生きていきたいかをみんなですごく議論するんですね。そういう環境にいたからこそ、どこの会社に入るかではなく、30、40、50歳になった時に世界を股にかけるような仕事、どこにいても生きていけるような仕事がしたいと思うようになりました。ところが当時は4回生の秋に帰ってきちゃうと内定を辞退した人を埋めるための若干名の募集しかなくて、今からでも受けられる、世界を飛び回れそうな会社を手当たり次第に受けて、3社から内定を得ました。

環境省の外郭団体に就職

──どのような会社に就職したのですか?

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留学時代、国連やユニセフにも興味を持っており、世界的な課題である環境問題に取り組む環境省の外郭団体に入社を決めました。入社後は秘書室に配属されて、役員秘書になりました。アメリカ帰りで、さてこれから大いに活躍してやるぞと頭から湯気が出てるような、かなり血気盛んな状態で入ったのですが、当然ながら官庁の外郭団体なので、男性優位の年功序列。秘書として最初に命じられた仕事はおしぼりを作るとか、タバコをそろえるとか、役員ごとに7紙の新聞を読む順番にそろえるというような仕事。毎日こんな仕事だけではとても満足できなかったので、上司に「国際協力室の仕事もやらせてほしいんです」と直談判したんです。すると「秘書室の仕事をちゃんとやるんだったら兼任してもいいよ」と認めていただけたので、とにかく国際協力室の仕事がしたいがために毎日集中して必死に秘書室の仕事を終わらせていました。


──国際協力室の仕事とは具体的にはどういうものだったのですか?

国際協力室は、JICA(国際協力機構)などと組んで、先進国で行われている環境問題の取り組みを発展途上国で実施できるような教育プログラムを考案する部署でした。当時私はまだまだ下っ端だったので企画をゼロから考えることはしなかったのですが、進行中の事業に関する資料を作ったり、マーケティング情報を集めたり、来日した海外の方々をご案内するという仕事をしていました。英語も使えるので楽しくてやりがいもあったのですが、もっとチャレンジングな仕事がしたいと、悶々とした日々を過ごしていました。

インターネットの会社に転職

そんなある日、当時国内のインターネット事業の最大手だったニフティが新たに海外事業部門を立ち上げて、海外からいろんなネットサービスを導入したり、日本のサービスを海外に売り込む新規事業を立ち上げ、新規メンバーを募集するという求人情報が目に飛び込んできました。それを見た瞬間、これはもう絶対にやりたいと思いその求人に応募して、めでたく採用となったんです。2000年、25歳の時でした。

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──ニフティではどのような仕事をしていたのですか?

海外事業を手がける新規事業部に入り、基本的にはいろんな海外の国に行ってはおもしろいサービスを見つけて、現地の大きな会社と業務提携を行うというビジネス渉外をしていました。海外出張が多く、会社に出勤して社長や役員と一緒に各国を転々と回ったりというケースもよくあったので、急な海外出張にも対応できるよう、常にパスポートを含めた2、3日分の旅セットを持ち歩いていました。

ずっとやりたいと思っていた、英語を使って世界を飛び回る仕事に就けたわけですから、もう本当に毎日食事しなくても大丈夫、寝る時間や遊ぶ暇がなくても全然平気、というくらい仕事に没頭しました。毎日が超充実してましたね。


──20代後半の頃って特に女性は結婚や出産について考える頃だと思うのですが、その辺はいかがでしたか?

当時はすごく仕事が大好きで毎日充実していたので、結婚願望も出産願望も人並みにはあったと思いますが、それほど深刻に考えていたわけでもありませんでした。

結婚したのは入社して3年後の2003年、28歳の時です。結婚後も同じく仕事ばっかりしてましたが(笑)。でも翌年の2004年7月に妊娠したんですがなかなか上司に言い出せなくて。海外を行き来する仕事だったので、どのタイミングで妊娠を伝えるべきかわからなかったんですよ。ひょっとして妊婦だからもう海外へは行かせられないとか仕事しなくていいと言われたらどうしようと思ってました。

それで安定期に入った頃、アトランタ出張で初めて胎動があり、最初だからこそ胎動だとわからなかった私は、お腹の中で赤ちゃんがおかしくなっちゃったと思って、その時ようやく上司に「実は私妊娠してまして......」と相談したんです。当然、上司は唖然呆然。「おめでとう」という言葉と同時に、黙っていたことをすごく怒られたのを覚えてますね(笑)。


──それだけ仕事が楽しくて充実した仕事人生を送っていたのなら、妊娠した時、もう少し仕事がしたかったのにな...という気持ちもありましたか?

確かにうれしいというよりこの先どうしよう、少なくとも海外には行きづらくなるなっていう動揺はありました。でも胎動がしてきたりお腹が出てきたり、そういう身体的な変化で不思議と母親になることを自然に受け入れていけたような気がします。勝手に子どもが私を母親にしてくれるんだなと思いました。

出産を機に生活が激変

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その後産休に入り、30歳で無事娘を出産しました。4月3日が予定日だったんですが結局3月まで仕事をして出産。4月生まれで、タイミングもいいので1年間しっかり育休を取って子どもと密着して過ごしました。1年後に職場復帰する時は、仕事と育児は両立できるものだと根拠のない自信があったので、意気揚々と復帰したのですが、全然そうはならなくて大変でした(笑)。


──どんな感じだったのですか?

復帰当日に子どもが肺炎になったんですよ。それで復帰日を1週間ずらしてもらったりといきなりつまづいたんです。これまでの仕事一筋のバリキャリ、ビジネスパーソンとしては復帰当日に子どもが熱を出したから1週間伸ばしてくださいなんていうのはもうほんとありえないわけですよ。これまでのビジネスウーマンとしての自分が焦りました。

今考えたら尋常ではない精神状態だったとしか思えないのですが、復帰日の2日前から子どもの熱が上がって体調が悪くなったので、とにかくこれ以上熱が上がらないでと祈っていました。ところがその後も体調はよくならず、復帰日になったら子どもがぐったりしてたんです。さすがにこれはまずいと病院に連れて行ったら肺炎と診断されて即日入院となりました。

病院に連れ行くまでの2日間は、娘に対して「とにかく元気になって」ではなくて、「ママは明後日からお仕事なんだから、お願いだからそれまでによくなって」という思いが強かった気がします。目の前でぐったりして点滴の針を入れられている娘の姿を眺めていた時、私って母親としてなんてひどいんだろう、母親失格だと思って涙がボロボロこぼれてきました。

その後も子どもを保育園に預けて仕事に行く時、まだ1歳になったばっかりの娘が保育園のゲートにしがみついて「ママー捨てないでー、置いてかないでー」って感じで泣きじゃくるんですよね。その泣き声を背中に浴びつつ、ごめんねごめんねと思いながら身を引き裂かれる思いで会社に向かう時なんかは、途中でポロポロ泣けてきて、仕事ってここまでしてしなきゃいけないものなのかと思ったことも何度もありました。

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会社に着いても、保育園からお熱がでてますとか元気がないですとかしょっちゅう連絡が来て、そのたびにまたぐったりしてたらどうしようと思って早退して保育園に迎えに行くわけですが、娘は想定外なほど元気だったりするんですよね。病院に連れて行ったら看護師さんに「今はお熱はないみたいですね」なんて言われることも多々あり、その都度「マジですかーっ」と何とも言えない思いも何度もしました。

しかも、そんな時は家に帰ってからも、娘が悪いわけじゃないのに、娘に対してもイライラしてしまったりして、そんな自分に子どもが寝てから凹むんですよね。仕事は仕事で会社に行ってもまた熱を出すかもしれないといつも不安と隣り合わせ。クライアントのところへ出向くにもあまり遠いところには行きたくないという気持ちが先走ってしまいました。気づけばいつも、仕事も中途半端、子育ても中途半端になっちゃっている気がしました。

娘のために人の10倍働く

そうこうしているうちに娘がもう一回肺炎になって入院生活に付き添ってしばらく休職して復職する、という経験をします。その時、このままでは仕事も子育ても両方中途半端のままになると思ったんですよ。それで1つの決心をしました。この子が将来医者になりたいとか海外留学したいと言っても、経済的な理由であきらめざるをえないということにならないように、とにかく早く偉くなって経済的にも時間的にも融通がきくレベルになるまで上り詰めようと心に決めたんです。そこからは目の色変えて本当に人の10倍働いたんじゃないかと思うくらい働きましたね。

例えば18時に会社を出て19時に保育園に迎えに行って、家に帰って晩ごはんを食べさせて、お風呂に入れて、本を読んで寝かしつけ、主人が帰ってくるのを待って今度は主人の夕食を作り、「じゃ!」と家を出て、会社へ戻ってそこからまた終電か朝まで仕事、なんていうこともありました。翌朝はまた、主人のお弁当を作り、娘の身支度をして朝ごはんを作って、夕飯の下ごしらえをして、私か主人のどちらかが娘を保育園に送って、また会社に行く、という生活をしてました。


──すごいですね。まさに寝る暇もない働きぶり。

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本当にゆっくり布団で寝るなんてことができなくて、行き帰りの電車の中で寝てました(笑)。今ほどスマホで移動中も仕事ができるような環境じゃなかったので、電車の中にいるときによく寝落ちしてました(笑)。


──それで体の方は大丈夫だったんですか?

私、元々すごい睡眠時間が短くても平気で、2、3時間で大丈夫なんですよ。むしろ6時間とか寝ると寝過ぎで頭痛がしたりします(笑)


──よくそこまで仕事と育児・家事の両方をやれてましたね。

1人ではどうにもならない時は主人はもちろん、夜間保育やベビーシッター、ファミリーサポートなど、使える支援は何でも使っていました。知り合いに頼るのが苦手だったので家族かお金に頼るしかない、という感じだったんですが。


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甲田恵子(こうだ けいこ)

甲田恵子(こうだ けいこ)
1975年大阪府生まれ。株式会社AsMama 代表取締役CEO

関西外語大学英米語学科入学後、フロリダアトランティック大学留学を経て環境省庁の外郭団体である特殊法人環境事業団に入社。役員秘書と国際協力関連業務に従事。2000年、ニフティ株式会社入社。マーケティング・渉外・IRなどを担当。2007年、ベンチャーインキュベーション会社、ngi group株式会社に入社し、広報・IR室長に。2009年3月退社。同年11月、33歳の時に誰もが育児も仕事もやりたいことも思い通りにかなえられる社会の実現を目指し、株式会社AsMamaを創設、代表取締役CEOに就任。2013年、育児を頼り合える仕組み「子育てシェア」をローンチ。多くの子育て世代の支持を得ている。著書に『ワンコインの子育てシェアが社会を変える!! 』(合同フォレスト刊)がある。

初出日:2017.04.03 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの