死の恐怖が原動力に
──受験期はさらに忙しくなったわけですね。夢のためとはいえよくそこまで頑張れましたね。
精神的にきつかったのは確かですが、それよりも充実していましたね。自分で選んだストレスというか、自分が追い求めているものを実現するために乗り越えなければならない試練だったからね。
それと今、久しぶりに思い出したんですが、僕が3歳の頃、母と一緒に隣のお家に遊びに行ったことがありました。僕が別の部屋にいたときに彼女たちの話が聞こえてきたんですが、母は「アランはいつ死ぬかわからない。ある日突然死んでしまうかもしれない。それが恐くてしょうがないの」と話していたんです。それ以来、僕はいつ死ぬかわからないんだという恐怖をずっと背負って生きねばなりませんでした。でも同時に、いつ死ぬかわからないなら精一杯生きなきゃいけない、与えられた時間を最大限使おう、やりたいことをやろう、とも決意し、それ以来、やりたいと思ったことは何でも限界までハードに頑張ってたんですよ。
───突然死んでしまうかもしれないというのはどういうことですか? 何かの病気だったのですか?
いえ、そういうわけではありません。それからずっと後の、ちょうど結婚する前の28歳の頃、母に「なんでアランはそんなに生き急いでるの?」と聞かれたことがありました。「だって僕はいつ死ぬかわからないんだからできるだけのことをやりたいんだ」と答えたら、「それどういうことなの?」と聞き返してきたので、3歳の頃の話をしたんです。そしたら母も思い出して「ああ、あのことね」と笑い出しました。詳しく聞くと、あの頃の僕は一度泣き始めたら長い時間泣きやまず、酸欠になって気絶するということがしばしばあったらしいんです。病院に行くと、医師は「子どもにはそういうことがよくあるけど、大きくなったら自然と治るから心配はいらない」と言ったのですが、母は「もし滑り台の上で泣き出して気絶したら転落して死ぬかもしれない、だから目を離せない、死ぬかもしれない」と心配していた、というのが事の真相だったんです。だから僕は長年大きな勘違いをしていたわけですよ(笑)。
その後は、5歳くらいからはその症状が全然出なくなったので母はとっくに忘れていた。僕が持ち出すまではね(笑)。25年くらいたって誤解が解け、2人で笑いあいました。でも、この小さな思い違いが、人生の時間を一瞬も無駄にしないでやりたいことを全力でやろう、だからどうしても画家になりたいと思った大きな原動力になったことは確かなんですよね。
誰でもいつ死ぬかわからないということは間違いないのですが、いつもそういうことを考えていてはまともに日常生活を送れないので、頭の隅に追いやって考えないようにしています。そのため本当に自分のやりたいことを考えなかったり、やりたいことに全力でチャレンジしなかったりする人も大勢いるでしょう。そう考えたら僕の場合はそういう勘違いをして逆によかったと思っています。
50点の作品を提出
──試験はどんな感じだったのですか?
受験した大学は、スミソニアン美術館の館長が学長を務めるカーネギーメロン大学という全米トップクラスの大学の芸術学部で、入学倍率は50倍とかなりの難関でした。もう1つ大変だったのは試験を受けるに当たり、提出しなければならない作品点数が50点だったこと。僕は高校時代にたくさん描いていたので点数自体は問題なかったのですが、どの絵を選ぶかでかなり頭を悩ませました。どのようなタイプの試験官が見ても大丈夫なように、いろんなタッチの絵を選びました。あとはデッサン帳もたくさんあったので、提出することに。デッサンにはその時考えていること、見ていること、気になっていることなど、頭の中身が全部出るから、それを見せればいいかなと。それでワゴン車を借りて作品50点とデッサン帳50冊を積んで大学の試験会場に持って行ったんです。でも試験会場に入っても50点を持ってきているような受験生は見当たらなくてね。みんな作品の数が多すぎてどこか違う場所に置いてきたのかなと思っていました。
それで試験会場で試験官に作品を見せていると、「作品を50点全部もってきた受験生は初めてだ」と言われました。また、「デッサン帳1冊を1点として数えている学生も初めてだ。普通の受験生は1ページを1点として数えている」と。それを聞いて他の受験生を圧倒した感があって、ちょとだけよかった~と思いましたね。
でも、願書を出して結果が出るまでの数カ月間は本当に苦しかったですね。この合否通知1つで僕の将来がすべて決まってしまうわけですから。もし不合格だったらどうしようという不安に24時間苛まれていました。不合格でも「わかりました、画家の道はあきらめます」ということにはならない。違う職業を選ぶことなんて想像できないわけですから。あの頃に描いてた絵は完全に病んでますね。でも結果は合格。不安で不安でしょうがなかっただけに合格通知が届いた時は本当にうれしかった! ほっとしましたね。
一方、父は「しまった」って感じでした。僕が合格するなんて絶対にありえないと思っていたので(笑)。でも結果は合格だったんです。それでも「アラン、絶対に不可能な条件をよく飲んでクリアしたな」とほめてくれて、最終的には「約束したからには仕方がない」という感じで美大入学を許してくれたんです。父は弁護士だったから職業柄約束は守らないといけないからね(笑)。
苦しかった大学時代
──大学生活はどうでしたか?
アメリカでトップクラスの芸術専攻だけあってすべてにおいてかなり厳しかったですよ。入学した年の最初の冬休みに入る前、成績の悪い学生や1日でも欠席した学生は先生から名指しで「君と君と君は次の学期は来なくていいよ」と言われたんですよ。こういうことって絵描きとしてあんまりされたことがなかったのでショックで恐かったですね。そういう感じでそれ以降も学期の終わりごとにどんどん削られて、学年で90名合格したんですが、最終的に卒業できたのは15名しかいませんでした。
──授業はどんな感じでした?
つらかったですね。というのは、ものすごく簡単に言うと、文化の美術史から見ると西洋の絵画の主な題材は人物で、東洋は自然なんですね。前にも触れましたが、僕は小さい頃から何より美しいと思っていたのが植物で、自然の画を描くのが大好きでした。
一方、人物画には興味関心が全くなかったのですが、人物が描けなければ始まらないというのが西洋画の美術教育の基本だったんですよね。中学生の頃から絵画教室で人物デッサン、裸体を何時間も描くのがつらかったのですが、大学に入るとさらに1日9時間、延々と人物デッサンをやらされて。確かに人体が最も複雑な物体で少しでもデッサンが狂うとわかってしまうので、正確な表現力を身につけるために人物デッサンは大事だというのはわかるのですが、題材としてはどうでもいいんです(笑)。だから来る日も来る日もひたすら人物デッサンをやらなきゃいけないというのがとてもつらかったんです。もう懲り懲りという感じでしたね(笑)。
あと、当時の大学はモダニズムに異様に傾倒していて、モダニズムじゃなければアートじゃないという風潮だったのも嫌でしたね。本筋からずれるので詳しくは言いませんが、僕はモダニズムは人間にとって心が豊かになるためのものをすべて否定する思想だと定義していたので、モダニズム偏重型の教育環境の中で美術を学んでいていいのか、今の環境で画家として有意義なことが得られるのかという疑問をずっと感じていたんです。そもそも絵描きを評価するものは作品以外にはないですよね。絵が好きな人は絵描きの学歴や学校時代の成績で絵を買うわけじゃないし、画廊もそれで絵を置いてくれるわけじゃない。あくまでも作品が素晴らしいと思うから、気に入ったから買うわけです。そう考えたら、この環境の中で自分の絵がよくなるとは到底思えなかったので、なおさらここで学んでいいのかという疑問は大きくなったんです。
僕の絵はモダニズムとは対極にあったので、先生方からよく批判もされました。かといって、自分がしたい表現を貫き通したら落第させられてしまうかもしれない。そういった葛藤、ジレンマで非常に苦しかったんです。
アラン・ウエスト(Allan West)
1962年アメリカ、ワシントンDC生まれ。日本画家/「繪処アラン・ウエスト」代表
3歳から絵を描き始め、8歳で画家を目指す。9歳から絵画教室に通い始め油絵を学ぶ。14歳で初めて絵の注文制作を受け、舞台背景などを描く。高校時代は絵画で大きな賞をいくつも受賞。「National Collection of Fine Arts」(現スミソニアン・アメリカ美術館/Smithsonian American Art Museum)で週2回、ボランティアとして学芸員のサポートを経験。大学は競争率50倍という高いハードルをクリアし、カーネギーメロン大学芸術学部絵画科に入学。1年で休学し、理想の画材や技法を求めて日本へ。岩絵具や膠などの日本画の画材と出会い、日本に移住して画家として活動することを決意。1987年、カーネギーメロン大学学部卒業後、日本へ。1989年、東京藝術大学日本画科 加山又造研究室に研究生として入室。日本画の技法や画材の取り扱い方を学ぶ。同時期に日本人女性と結婚。1999年、谷中に自動車整備工場を改築して、アトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」を構える。以降、掛け軸、版画、衝立、屏風、襖絵、パネル画、酒瓶のラベル、扇子、着物などに作品を描き、数々の展覧会に出品、受賞多数。仕事の8割が注文制作で、クライアントも企業、ホテル、イベントホール、レストラン、神社、自治体、個人など多岐にわたる。その他、講演、ワークショップ、ライブペインティングなども精力的にこなしている。また「繪処アラン・ウエスト」で能楽などのイベントも開催している。
初出日:2016.11.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの