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2015.07.08  取材・文/山下久猛 撮影/大平晋也

社会人1年目で妊娠、退職

──端羽さんのこれまでのキャリアについて教えてください。大学を卒業後はどのような会社に入社したのですか?

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大学卒業後、外資系証券会社の投資銀行部門に入社しました。父が熊本の地銀に勤めていて、金融は産業を育てる社会のインフラだと話していたのを聞いて金融に興味をもったからです。また、普通の銀行よりも新しい金融の分野にチャレンジできそうな気がしたので投資銀行を選びました。当時付き合っていた彼も同様に忙しい会社への就職が決まっていたので、お互いかなり忙しくなるだろうから結婚しておこうかと大学卒業直前に結婚しました。その予想は大当たりで、1年目から毎日朝から深夜2時3時頃まで働いて、0時に帰宅すれば今日は早かったねと言われるほどの激務でした。


──どんな仕事をしていたのですか?

例えば外資系企業の日本法人が日本の証券取引所に上場する際の資料を英語で作成したりしていました。その他にもさまざまな会計資料を作る上でのたたき台の作成なども。自分が手がける作業が目に見える形になる仕事だったので、涙が出るほど忙しかったのですがやりがいも大きかったですね。入社1年目の新人にいろんな仕事を任せてもらえていろいろ勉強になったしありがたかったです。なにより外資系証券会社で学んだのが根性。当時の先輩たちは「誰でも99%まではできる。最後の1%までやりきることができるのは限られた人間だけだ。俺たちはその最後の1%までやりきって100%目指せる人間なんだ!」とよく熱く語っていました。みなさんすごく熱くて仕事に対するコミットメントがすごい人たちばかりだったので、そういう環境が働くことの意識の基準を上げてくれたと思っていて、その後の人生にもかなり活きました。

でも、就職して半年ほどで妊娠したので2002年3月に外資系証券会社を退社しました。辞めるときは申し訳ない気持ちでいっぱいでした。会社は妊娠したからといって辞めなくてもいいんじゃないか、産休と育休を利用して落ち着いてから戻ってくればいいじゃないかと言ってくれてありがたかったのですが、そうはいっても妊娠したらそれ以前のように深夜2時3時までバリバリ働くことなんて到底できません。配慮してもらった分、だれかにしわ寄せがいき、迷惑をかけることになります。しかも実績も何もない1年目だったので余計に会社に迷惑をかけたという気持ちの方が強かったので、産休や育休を利用させてもらうだけの資格が私にはないと思っていたんです。当時は若気の至りで負い目を感じてまで働きたくないと思い、会社からのありがたい申し出をお断りして退職したんです。

出産、資格取得、海外へ

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退職後、2002年6月に娘を出産した後、11月にUSCPA(米国公認会計士)の資格試験を受けました。出産後も働く気はあったので、何か武器を身につけておきたいと考えたからです。当時は乳飲み子を抱えていたのでいきなりフルタイムで働くというよりは資格をもったスーパー派遣みたいなものを目指そうと。何の資格がいいかなと検討したとき、外資系証券会社での仕事を通じて会計と英語の知識とスキルは多少、身につけられていたので、その2つがあれば仕事には困らないだろうとUSCPAを取ろうと思ったんです。

しかし、最初はスーパー派遣として働こうかと思っていたのですが、やっぱりこの先何があるかわからないので正社員としてフルタイムで働こうと思い直して、USCPAの資格試験の勉強と同時並行で求人サイトに登録するなど就職活動を開始しました。するとエージェントから外資系化粧品会社の経営管理の仕事を紹介されて、USCPAの合格通知が届く前の2003年3月、子どもが9ヶ月のときに入社しました。入社動機は、ブランドの予算を作って予実を管理するという仕事がおもしろそうと思ったことが1つ。もう1つは妊娠していたときお腹が大きいとファッションは楽しめないけど、お化粧だけは楽しめたので、初めてそのとき化粧品に興味をもったからです。外資系化粧品会社での仕事は会計の知識を活かせたこともあり、とても楽しく、充実していました。でも働き始めて1年ほどで夫が海外にMBA留学したいと会社を辞めて家で勉強し始めたので、私が外で働いて、夫が主夫みたいな感じになりました。

その後、夫がボストンにある大学への留学が決まったので外資系化粧品会社を辞め、2004年8月に一家でボストンに渡りました。夫の留学期間は3年だったので、1年は主婦をして残りの2年は私もビジネススクールで勉強しようと2005年9月にマサチューセッツ工科大学(MIT)のスローンスクール(MBA)に入学しました。当時子どもは3歳だったのですが、大学付属の保育園があってそこにあずけていました。子連れで入学している人はアメリカ人含めてもほとんどいなかったですね(笑)。

MITでMBA

──なぜ端羽さんもビジネススクールに通いたいと思ったのですか?

私はそもそも新しいものを生み出す仕事がしたいという思いが強く、当時は起業したいと思っていて、そのために勉強したいなと。あと、一国一城の主になりたいという気持ちも強かったのですが、当時幼い子どもがいてすでに2社を経験しているので、これから先どこかの会社に就職しても組織の中で出世してトップに立つことが想像できなくなっていました。1社目で人に負い目を感じながら生きていきたくないなと強烈に思ったので、ならば自分で事業を作って起業してまさに自分の城を作り、大きくしていく方をやりたいと思ったんです。


──1社目を1年目で妊娠して辞めたことの衝撃がかなり大きかったんですね。

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どの企業も新卒採用には結構なお金をかけますよね。それなのに入社半年で妊娠して、午前0時に帰宅できれば早いねといわれるような職場で自分だけ早く帰ることに申し訳なさを感じていました。その負い目に耐え切れず1年で辞めてしまったことで同僚や先輩、上司に多大な迷惑をかけてしまったという強い罪悪感も感じていました。だから起業したかったというより、もう会社員になりたくない、雇われる人になりたくないという思いの方が強かったのかもしれません。

それでMBAに提出するエッセーにも「将来は自分でビジネスをやりたい」と書いたんですが、入ってみると自分の甘さを痛感しました。というのは、当時ボストンはバイオベンチャーブームで、再生医療など最先端の分野で起業プランを練っている超優秀な人たちがたくさんいて、彼らを間近で見ていると私レベルが起業したいというのはおこがましいなと思ったんです。私は儲かる事業を見極める目も金融の知識に関してもまだまだ中途半端だったので、まずはそれらの分野でしっかり腕を磨いてから起業しようと考え直したんです。


──MITに留学してよかったと思うことは?

学生のときにアメリカとイギリスに2回短期留学したことはあるのですが、ちゃんと留学したのはこのときが初めてでした。先ほどの話とも関連するのですが、周りの超優秀な同級生とこれからやりたいこと、人生プラン、キャリア目標などについてたくさん議論したことがものすごくよかったです。子どもを産んで会社を辞めて主婦に戻ったことで1回後方に下がったような気がしてしまっていたのですが、もう1度自分が働く最前線に立てると思えたんです。野心が戻ってきたというか気合いが入りましたね。

端羽英子(はしば えいこ)
1978年熊本県生まれ。株式会社ビザスク代表取締役社長

東京大学大学経済学部卒業後、結婚。ゴールドマン・サックス証券に入社。投資銀行部門で企業ファイナンス等に従事。入社半年で妊娠し1年で退社。その後女児を出産。USCPA(米国公認会計士)を取得後、日本ロレアルに入社。化粧品ブランドのヘレナルビンスタインの予算立案・管理を経験。夫の留学に同行し家族で渡米。1年間主婦をした後、MIT(マサチューセッツ工科大学)のMBA(経営学修士)コースに入学。2年後MBA取得。帰国後離婚、以来シングルマザーとして働きながら子どもを育てる。帰国後すぐに投資ファンドのユニゾン・キャピタルに入社、企業投資を5年間経験後、2012年株式会社ビザスクを設立。2013年ビザスク正式オープン。知識と経験の流通を変える新しいプラットフォームの構築に日夜奔走している。

初出日:2015.07.08 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの