自分の店を開く

──アメリカでインディアン居留地をめぐる旅から日本に帰国した後はどうしたのですか?
1994年10月に日本に帰国して1年掛けていろいろ準備して、1995年11月にエコロジカルでオーガニックな生活必需品を販売するお店「キラ・テラ(KILA・TERA)」を渋谷にオープンしました。自分が日々使っているモノを中心に、一日の生活の中で誰もが使う生活用品すべてがエコなもので揃うように探しまくって、実際に自分で使ってみていいと思った物だけを選びました、例えばエコ歯ブラシや歯磨き粉、洗剤、バス用品、基礎化粧品、オリジナルのオーガニックコットンの洋服、再生紙のステーショナリーなどを扱っていました。当時はまだエコロジカルでオーガニックな製品自体が少なかったから探すのがたいへんだったのよ。お店ではアルバイトの女性を1人雇ってたけど、もちろん私自身も商品の陳列、販売、接客、経理など全部やってました。
──お店は繁盛したんですか?
いえ、けっこう赤字続きで苦しかったですね。当時はまだまだエコというと、ダサいとか、貧乏くさいとか、めんどくさいというイメージがすごく強かったのよ。だからそういうイメージを払拭したくて、おしゃれなお店にしたかった。元々エコに興味がある人よりも、普通の人がおしゃれでかわいいお店だからと普通に買い物に来るお店にしたかったの。当時こんなお店は他には全くなかったね。でも勤務時間だけは長かった(笑)。お店の開店時間は11時から20時までなんだけど、お店を閉めた後もやることは山ほどあったから終電ギリギリまで仕事をしてたの。当時は逗子に住んでたから通勤もけっこうたいへんだった。
──なぜ逗子に住んでいたのですか?

アメリカに行く前に世田谷のマンションを引き払っていて、帰って来たときは住む家がなかったから、取りあえず友だちの家に居候しながら新しく住む家を探してたの。店の場所は渋谷・原宿・青山近辺って決めてたから、最初は世田谷区内で渋谷まで20分ぐらいの所を探してたんだけど、なかなか気に入ったところが見つからなかった。不動産屋さんに「あなたの希望条件を満たす物件は世田谷区や目黒区には絶対にない」って言われちゃって(笑)。その頃には外国人のタレント事務所を経営していたときに稼いだお金は全然なくなっちゃってたからね。不動産屋さんに、渋谷まで一本で行けるけれどもう少し離れたエリアで検討しましょうと言われて探したんだけど、これだという物件やエリアに出会えなくて。じゃあいっそのこと湘南はどうですかと言われたとき、えっ、"湘南"? なんとも魅惑的なこの響き、あこがれの湘南じゃん! 元々海が好きだったから、そりゃあ湘南でしょう、と思っちゃったのね(笑)。それで逗子にいい物件があったから引っ越したってわけ。庭付き南向きで日当たりもよくて、窓から海が見えたからすごく気に入っちゃった(笑)。
──でも逗子から渋谷まで毎日通うのはけっこうたいへんじゃなかったですか?
タレント事務所の仕事をやってるときは、24時間365日働いているようなものだったから仕事とプライベートの境目なんかなかった。自宅の一室を事務所にしてたしね。でもお店は営業時間が決まってるから、閉めた後は自分の時間になる。仕事は渋谷、プライベートは逗子ってきっちり分けられるライフスタイルっていいかもと。だから通勤に1時間かけても逗子に住んでもいいやと思ったんだけど、全然そうはならなかったわけ(笑)。さっきも話した通り仕事は営業時間内に全然終わらず、けっこう遅い時間まで店で仕事して、逗子の家には寝に帰ってるだけみたいな。1時間かけて通うのが段々つらくなってきたんだけどすぐ引っ越すわけにもいかないから我慢して通ってたのよ(笑)。
別企業に吸収

それでお店を開いて2年ほど経った頃、知り合いから自然食材を販売している会社「ナチュラル・ハーモニー」の社長を紹介されました。彼は横浜市の郊外で自然食品やエコ雑貨などのお店が入っている「プランツ」という複合施設にお店を出していたんだけど、そこに出店しないかと誘われたの。とにかく一度見に来てほしいと言われて行ったら、大きな倉庫を改装したお店で、表に「ナチュラル&オーガニック」と書いてある大きな看板を掲げてた。でも店内に入ってみると、ナチュラル・ハーモニーのお店以外では、これのどこがオーガニックなの? という商品だらけだったのね。知らない人が見てこういう物がオーガニックなんだと認識したらヤバいなと思って社長に話したら「やっぱりそう思うか、ちゃんと本物のオーガニックの商品を扱う店を一緒にやろう」と言われたの。でも私は2店舗目を出す余力はなかったから、どうすれば実現できるか、社長と何度も話し合って。その結果、最終的に彼がキラ・テラを買収して、私がナチュラル・ハーモニーの社員になり、プランツの中でキラ・テラを営業するということになったの。
──自分で開いたお店を手放すことや、組織の一員になることに抵抗はなかったのですか?
私はキラ・テラを作る時、自分1人でできる範囲の商品のみに絞って販売しようと思っていたのね。だから日用品や生活雑貨以外の部分、食品や家具などは最初から扱うつもりはなかった。でもナチュラル・ハーモニーとコラボして私が扱わない分野の仲間を増やせれば、私が本来やりたかった「エコロジカルなライフスタイルの普及」がもっとトータルに幅広い分野で実現できるかもと思ったのね。また、私は経営者とか代表者というポジションに何のこだわりもないし、別に一社員になってもやりたいことがやれればよかった。社長はプランツにお店を移すとしてもキラ・テラという名前はそのまま残して、それまで通り私の好きなようにやればいいと言ってくれたから、社員になることにしたの。自分でお店を経営するより何かと楽だからいいと思って(笑)。
<$MTPageSeparator$>エコブームに乗って拡大

──ナチュラル・ハーモニーではどのような仕事をしていたのですか?
入社して数年間はプランツの中に移転したキラ・テラの店長をやっていたんだけど、ちょうどその頃社会でエコ志向がどんどん盛り上がって、ブームみたいになったのね。それにつれて会社の売上も増えて規模もどんどん大きくなり、私の社内のポジションも上がって、やる仕事も増えていきました。
社長は私のセンスを認めてくれてて、雑貨事業部長になった頃にはキラ・テラだけじゃなくてナチュラル・ハーモニー社内全体のデザイン監理、例えば社員の名刺から会社の封筒、店舗のロゴ、看板から新しく出すお店の内装までほとんどのデザインを任されていたの。他にもオリジナル商品のパッケージ、イベントの企画運営、女性社員の教育などもやってました。
当時はオーガニックコスメが海外から次から次へと入ってきて、新しいメーカーもどんどん参入してきてた時期だったのね。私もこの業界の第一線にいたかったからアンテナを張り巡らせて情報を収集したり、新製品が入ってくると即買って自分で使ってみたり研究・分析したりしてた。最初の頃はそういうことも楽しかったんだけど、何年もやってると段々疑問を感じてきちゃって。結局、シミやシワを隠すためによりいいもの、より新しいものを開発するのって、競合他社に負けないようにより多くのお客様に売るためだよね。やってることって、原材料がオーガニックでも一般の大手化粧品会社と同じじゃん、それって本当に私がしたかった仕事なのかな? と疑問に思うようになったのよ。
仕事もすっごく忙しくなって渋谷で自分のお店をやってた頃よりも勤務時間が増えたのね。結局1日14時間くらい働いていて、1時間以上かけて逗子に帰ると晩ごはんを作る気力も全然なくて、適当に外食したり閉店間際のスーパーで惣菜を買って食べて寝るだけ。週6日もそういう状況だと休みの日なんて昼過ぎまで起きられないし、起きても掃除洗濯で1日終わっちゃう。大好きな海で遊ぶ元気なんてない。その繰り返しで以前にも増して何のために逗子に住んでるのかわかんないって感じになったのね。「エコロジカルで豊かなライフスタイルを提案する」という事業理念を掲げている会社で働いているのにこれってどうなんだろう、暮らしという意味でも私が望んだ生活とは程遠いと感じるようになったのよ。

それを少しでも変えたかったのと、体力的にもきつかったので、毎日私がお店にいる必要はないし、私のやってる仕事のほとんどが自宅のパソコンでできてたから、社長に出勤は週2日程度であとは自宅勤務にしたいと言ったの。そしたら許可してくれたから、状況はだいぶよくなったのね。でも、会社の規模が大きくなるにつれて段々自由が効かなくなってきたし、入社10年目くらいの頃、他の社員、特に新しく入ってきた人たちから「どうして直美さんだけ自由なの」みたいな不平不満が社内で段々増えてきたらしくてね。それで社長から、他の社員と同じように毎日ちゃんと出勤、しかも大好きなKILA・TERAではなく、世田谷の本社に出勤するように言われて。そうなると通勤に往復3時間もかかるから絶対嫌だと思って2010年10月に会社を辞めたの。
──辞めてからのプランはあったんですか?
一度はまた以前のように自分でオーガニック雑貨のお店をやろうと思ったんだけど、とても経済的な余裕がなかったから取りあえずインターネット上にショップを立ち上げて洋服と雑貨の販売を始めました。
あともう1つ、会社を辞めたら地域活動に本格的に取り組もうと思ってたの。そもそものきっかけは会社を辞める前、2009年1月に地域をより住みやすくするために活動しているトランジション葉山という団体の会合に行ったこと。
地域活動にのめり込む
──その頃から地域活動に強い関心があったのですか?

いや、そういうわけじゃないのよね。地元の友人に誘われて何となく参加したのがトランジション葉山の最初の会合。「持続可能」とか「エコロジカル」という言葉に惹かれたのかな。会場では70人くらいの地元の人が集まってて、いろんな人が問題提起して、それに興味がある人がそのグループで話し合うオープンスペーステクノロジーという手法をやっていました。その中で私は「地域で経済を回す」というテーマのグループに参加したの。そこに集まっていたのは、東京に1時間以上かけて働きに行って逗子の自宅には寝に帰るだけという私みたいな人たち、いわゆる「神奈川都民」が何人もいましたね。自分が好きで暮らしている土地なのに、そこで過ごす時間がほとんどなくて、東京でお金を稼ぎ、東京で落としてる。これじゃ東京のために働いてるみたいでちょっと違うなという問題意識をもっている人たちばっかりだったのね。
自分の住んでいる地域でお金を稼ぎ、地域のためにお金を遣うという、地域で経済を回す状況を作ろうと彼らといろいろ議論したんだけど、この時初めて地域の中で同じようなことを感じている人や気の合う人と話せてすっごい楽しかったのよ。それ以降地域のために活動したいと本格的に思うようになったの。このグループが発端となって生まれたのが地域通貨「なみなみ」なんです。(※インタビュー前編参照)。2009年1月の最初の会合から有志でミーティングを重ね、10月に19人で試運転開始、2010年4月に本格スタートしたの。参加者は一時期は100世帯を越えてたんだけど、3.11の東日本大震災で福島原発が爆発したことで逗子・葉山を離れる人が増えて今は50世帯くらいかな。
<$MTPageSeparator$>運命を変えた震災

──原発が爆発した時、川崎さんは逗子を離れようとは思わなかったんですか?
その時はめちゃくちゃ悩みました。でも悩んだ末に出ないと決めたの。いったんはね。トランジション葉山に参加して、地域に仲間と呼べるような友人もたくさんできた。地域通貨も立ち上げて、これからもっと地域のために活動し、地域の人たちと支え合いながらこの土地で長く生きていこうと決めたばっかりなのに、原発が爆発したからといって逗子葉山の仲間を見捨てて逃げていいのかという葛藤がすごくあったの。当時はトランジション葉山のメーリングリストは、避難するとか残るとか、車を出すから乗りたい人は一緒に行こうとかメンバー間ですごく情報が飛び交ってたのね。だけど私はやっぱりここを捨てられないから残ろうと決めて、「私は避難しないで逗子に残ります」と書き込んだの。
その直後に同じメンバーの親友から電話がかかってきて、「あなたは1人で自由が効くんだから今すぐ逗子から出た方がいい」と言われたの。その時はちょっと考えさせてと一回電話を切ってどうしようと悩んでいたら、次から次へと友だちから電話がかかってきて、「早く出た方がいい」と口々に言うのね。最後に電話をかけてきた友だちに「絶対、今すぐ出た方がいい!」って強く言われて、みんながそんなに出ろって言うのならそうした方がいいのかもと思い、3月13日に取りあえず荷物をまとめて新幹線に乗って神戸の実家に行きました。
──それからどうしたのですか? 何かプランはあったのですか?

プランなんて何もないわよ(笑)。実家に泊まった翌日、最初に電話をかけてきてくれた親友と他の2人の友人と神戸で合流して、友人の車で取りあえず西の方へ行こうということになりました。まずは出雲大社に行ってお参りした後、トランジション葉山を立ち上げた人が移住していた九州の阿蘇へ行き、何日か泊めてもらいました。その後別府や国後半島を回って、原発反対運動をやってた山口県の上関、そして祝島から瀬戸内を回って神戸、淡路島に行きました。その間、移住先を探そうといろいろ見て回ったんだけど、ここに住みたいとピンと来る場所がなかったの。阿蘇はおもしろい人がたくさんいてすごくよかったんだけど肝心の海がない。一番可能性があったのは淡路島だった。神戸というおしゃれな大都会にも近いし海に囲まれてるしね。
でもそうこうしているうちに月末になってきて、いろいろ支払いもあるし、お金もどんどん減っていく一方だし、いつまでもうろうろしてるわけにはいかない(笑)ということなり、4月2日に逗子に帰ったの。
運命的な物件との出会い
──逗子に帰ってからはどうしたのですか?

半月ほど西日本を放浪しても移住したいという土地も見つからなかったし、気持ちもだいぶ落ち着いてきたからやっぱりここで地域の人たちと生きようと決めたの。でも当時住んでた逗子の家の家賃がけっこう高くて、定期収入もないのにこんな高い家賃を払ってる場合じゃない、まずはもっと生活をスリムダウンしなきゃと思って、当時の家賃の3分の2程度の物件を探し始めました。
そんなとき、生後数ヶ月の赤ちゃんのいる友人が葉山からご主人の実家の四国に移住するって聞いたの。彼女はオリジナルのヘンプウエアを作って販売していたんだけど、その工房兼店舗として使っていた家がとても広くて、工房や店舗スペースの他にリビングと寝室もあって十分生活できる広さだったのね。でもそれだけ広いと家賃も高いだろうなと思ってたから眼中になかったんだけど、家賃を聞くと私が新しく設定した金額そのものだったのよ。この広さを考えたら破格に安いし、しかも店舗スペース付きで海まで2分。これはもうここに住んでまた店をやれってことだと思って、すぐここに入るって決めたの。それで2011年5月にここに引っ越して、7月に「レパスマニス」を開店したのよ。
<$MTPageSeparator$>普通のことを丁寧に

──現在はどんな暮らしなのですか?
だいたい8時過ぎに起きて、シャワーを浴びたり朝ごはんを食べたり、海でアウトリガーカヌーに乗ったりしてゆっくり過ごしてます。営業日は開店準備をして11時にお店を開けて、営業中は接客・販売のほか、洋服のリメイクをしたりもします。でもお店にずっと座っているわけではなくて、お客さんもそんなに来ないから、隣の居間でパソコンの前に座って地域活動系の仕事をしていることが多いわね。
──日々の過ごし方で大事にしていることは?
一番大事にしている、というか大切にしたいと思っていることは、普通のことをできるだけ丁寧に心を込めてするということ。朝起きて寝るまでの一連の行為、歯磨き、食事、洗濯、掃除など、普通の暮らしをいかに丁寧に手を抜かず心を込めてやるかというところに私はすべての根源があり、人生が決まってくるんだと思うの。
──丁寧にというのは具体的には?
一つひとつの行為を意識してやるということかな。日々の普通のこと、掃除や洗濯、食事、人との会話など、どんなことも一つひとつの行為を意識して行う、丁寧に隅々まで心を込めて行うってことかな。例えば髪の毛を洗うときに一本一本の髪の毛を意識しながら愛を込めて洗う。歩くのもただA地点からB地点へ移動するのではなく、一歩一歩を意識して歩く。70年代にBE HERE NOWって言われてたことかな。何か特別なことをやるのではなく、そういう普通の生活の基本そのものをどれだけ意識して丁寧にできるかが自分のペースを作っていくわけだよね。
──食材も自然食品にこだわっているのですか?

もちろん極力そうしているんだけど、そこはケースバイケースで絶対じゃないですね。食材はだいたいいつも逗子の大きな自然食品店で買うことにしているけど、そこで買えなかった場合は近所のスーパーで買ったり、いいものを買いたいけどお金が足りないときは普通の食材を買ったりしています。肩肘張ってると続かないしね(笑)。
物にこだわるというよりは行為に対して心を込めて、手を抜かずにしたい。例えば食事も忙しいときはとにかく食べなきゃいけないからちゃっちゃと作ってぱっぱと食べるという感じになりがちだけど、できるだけそれをしたくないのよ。時間がないときはお店でお弁当を買うこともあるんだけど、それをできるだけやめて、家でおにぎりを作って持って行くというふうに変えていきたいなと。
多くの人はね、偉大なことを成し遂げることで幸せな人生になるとどこかで思ってるような気がする。例えば大企業に入ることだったり、すごくすてきなお店をもつことだったり。何かで成功することだったり有名になることだったり。でもそうじゃなくて、料理でも掃除でも丁寧に心を込めてやると気持ちがよくなるでしょ。そういう小さないい気持ちの積み重ねが豊かな人生を作っていくんだと思うの。
やりたいことをやるべき
──生き方という意味で大事にしていることは?
私の好きな言葉で言うと「人事を尽くして天命を待つ」。自分でできることはとことんやって、最後は神様に任すしかないのかなと。
──では働くということ、もしくは働き方で大事にしていることは?

私は自分がやりたいことを仕事にするべきだと思うのね。でもこれがなかなか難しい。私も会社を辞めるとき、すごく悩んだんだけど、社長から毎日本社に出勤しろって命じられたりいろいろと自由が効かなくなってきても、我慢して従っていれば毎月一定の給料が入ってくるから経済的な生活は安定する。でもそれって、自分の時間と労力を自分がやりたくないことのために差し出して、その見返りとして生活が保証される、つまり生活するために魂を売り渡しているわけだよね。
でも本来人間はそういう暮らしをするべきじゃないと思うのよ。やりたくないことを嫌々やりながらじゃないと暮らしていけないなんて絶対おかしい。すべての人間は本来、自分の好きなことややりたいことをやれて、生活も成り立つというふうに暮らせるはずだと思うのね。私は今、やりたいことはやれてるけど生活は苦しいから、何かが間違ってるんだろうね(笑)。
──それはたぶん多くの人が感じている問題だと思います。やりたいことと経済的安定のバランスって本当に難しいですよね。
やりたいことを取って経済的な安定を失うのは誰だって恐いわよ。多少収入が減るくらいならいいけど、50%ダウンだったら厳しいよね。でも嫌な仕事はやっちゃいけないし、嫌な会社にい続けたらいけないと思う。悩んでいる人もいろんな理由付けをして本当はこうしたいということをやれていないと思うんだけど、自分の本当の気持ちは自分自身が一番よく知ってるんだよね。そこから目をそらし続けるか、直視するかの違いだけだと思いますよ。
理想の生き方
──では理想の生き方は?

自分が好きなことでちゃんと稼げて好きなように生きるということ。もちろんみんなそうだと思うけどね。自分の好きなことだけをして生きると言うとすごくわがままで、怠け者、ずるいような感じもするんだけど、そうじゃなくて自分に与えられてるものを生かすということ。ちょっと大げさなことを言うとみんな使命、やるべきことを背負ってこの世の中に生まれてきてると思うのね。それを見つけることができれば精神的にも経済的にもハッピーに生きることができると思うのよ。
──ご自身の役割、使命は意識されてますか?
葉山に引っ越してきてから地域のために尽くしたいという気持ちがより一層強くなったから、それが私の使命なのかな。今後も地域のみんなが幸せに暮らせるような活動をしていきたいと思っています。これで食べていければ最高なんだけどね(笑)。