起業の原点となったバングラデシュ
大学時代に、もう1つ人生の転機となったことがありました。世界のことをもっと知りたいと思い、いろんな国に行ってたんですね。中でも最も苦しい国の人のことを深く知りたいと、当時の世界最貧国のバングラデシュに初めて行った時のことです。
お金がなかったのでタクシーの運転手に「一番安い宿までお願いします」と言って連れて行ってもらったホテルが、1泊5ドルの売春宿だったんですよ。そこには農村から騙されて売られた女の子がたくさんいて、もし彼女たちと話ができるようになったら、僕がこの世界で何をすべきかがわかるんじゃないかなと思ったんです。
そこで、彼女たちをテーマにしたドキュメンタリー映画を作ろうと思ったこともあり、それからバングラデシュに通うようになりました。でもその売春宿のオーナーが撮影を許可してくれなかったので、村の方にある娼婦街を探して、そこにこもってずっと撮影してて。おかげで現地語も日常会話レベルなら話せるようになりました。この彼女たちとの交流が第2の人生の転機となったんです。
──具体的には?
村から騙されて売られた女の子たちは家族とも連絡を取っていなくて、社会から排除されていました。まず、この点で彼女たちは10代の頃の僕と同じだとまた勝手に共感を覚えたんです。
一方で普通の村に行くと貧しいのですがみんなそれなりに幸せそうなんですよ。例えば自分の家にテレビがなくても、隣の家にもテレビがないので何にも不幸だとは感じていません。幸・不幸というのは比較の問題で、村の平均寿命が50歳なら自分が50歳で死んでも別に不幸じゃないんだなと。
でも売春宿にいる女の子はお金は稼げているんだけど、みんな精神を病んだりリストカットしたりと、生きるのがとてもつらそうでした。だから人間の幸せってお金をたくさんもっているかとかじゃなくて、自分の尊厳が守られているかどうかで決まるんだなと痛感しました。それで将来は人間の尊厳を守る仕事をしようと決意したんです。これが後にキズキを立ち上げた原点となりました。といっても当時は何をやりたいのかわからなかったので、日本の一般企業に入ろうと就職活動を始めました。
何がやりたいのかわからない
──でも高校時代は国連に入って紛争解決の仕事がしたいと思っていたし、実際大学でも中東問題に関する活動をしていますよね。その思いは変わっていたのですか?
1つは国連に入るためには民間企業・NGOなどでの数年の経験や大学院が必須でした。しかし当時、大学院に行くお金はありませんでした。
また、大学時代に、パレスチナ人とイスラエル人を呼んで合宿会議をやったことはよかったのですが、その規模の活動では当然ながら紛争解決まではまだ遠くて。だから紛争解決に対して日本人の自分が何ができるかわからなくなったというか。
じゃあ紛争解決ではなく開発などの国際協力ならばどうかと考えたのですが、途上国に対する活動ってどこまで人の幸福に寄与しているのかなと疑問に思っていたんです。先程もお伝えしたように、隣の家にテレビがなければ自分の家にテレビがなくても不幸を感じないからです。他にも、バングラデシュの貧困層の若者に教育支援をして知識や技術を身に着けさせても、仕事がないから不満だけが高まるかもしれない。教育を受けても仕事がないというのは、イスラム原理主義への共感につながっています。また、よしんば教育を受けたおかげで識字率が上がり、工場で働けるようになったとしても、その代わり先進国で工場が必要なくなり、先進国で失業者が生まれるかもしれない。もう何が正しいのか、わからなくなったんです。
でも、そうは言っても食べて行かなきゃいけないじゃないですか。当時は本当にお金がなかったし、子どもの頃の経験からお金がない生活だけはしたくないと強烈に思っていたので、取りあえず日本の一般企業に就職して、何をやるべきかは働きながら考えようと思ったわけです。
──就職活動はどうでしたか?
大学時代、他の学生のようにインターンしたり企業の研究会に参加したりせず、パレスチナ問題とかバングラデシュでのドキュメンタリー映像制作など好きなことばっかりやっていたので、どこも受からないかもと思ってビクビクしながら就活を始めました。やりたいことがわからなかったので、何らかの形で途上国に関われて、ワークライフバランスがよくて給料がいい会社に入りたいと思っていろいろな業界の会社に応募しました。そしたら意外と外資系コンサルティング会社、商社、メディアなどから内定をもらえたんです。就活で自分に自信がもてるようになりました(笑)。リーマンショック前の好景気だったことも大きかったと思います。その中から就職先として選んだのは商社でした。
不純な動機で商社に入社
──なぜ商社を?
コンサルティング会社は給料はものすごくよかったのですが、労働時間が長すぎて耐えられないと思い、辞退しました。
メディアについては、当時その会社でバングラデシュの番組を作っていたのを観たのですが、僕が知ってる実情とはかけ離れていました。例えばバングラデシュの工場で働いている人たちは活気に溢れているとだけ伝えていたけれど、実際には現地に進出した多国籍企業との間で労働争議がすごく起きていた時期でした。面接でディレクターに「僕らは1ヵ月くらい滞在すればその国のことわかる」と言われた時、こんな会社で働けるかと内定を辞退したんです。当時は結構強気でしたね(笑)。
商社なら取りあえず途上国に関われそうだし、海外にも行けそうだと。あと時給換算すると商社が一番よかったんですよ。労働時間もそれほど長くなくて19時頃に帰れて、30歳前後で年収1000万円近くもらえると。もうここしかないと思いました。不純な動機ですよね(笑)。
就職するまでに時間があったので、半年間ほどバングラデシュに行ったり、ホームレス支援をしたりしていました。
今につながるホームレス支援
──なぜホームレス支援をしようと?
ちょうどリーマンショックが起こって、派遣切りとか日比谷公園に派遣村ができたりして日本の貧困が話題になりました。その様子をテレビで見て、もう少し日本の社会問題を知りたいと思ったんです。貧困といえば山谷かなと思い、取りあえず山谷に行きました。
──具体的にはどんな支援を?
炊き出し支援などを行いつつ、ドヤ街にいるいろんなホームレスの人と話しました。そのことを商社で働く先輩に話したら、「俺にはホームレスの人たちの生活が想像できない」と言われたので、ホームレスの方を招いた勉強会をやってみようと思いました。また、僕自身にとってもホームレスは近い存在でした。継母と合わず、野宿していた時もありますし、10代の頃は周りに貧困家庭の子が多く、大学や専門学校に行きたければ自分でお金を貯めて行くという発想が普通でした。でも一方で大学に行ったら、「高校時代にバイトなんてしたことない」という学生がほとんどだった。社会ってこんなにも分断されているんだなというのが問題意識としてずっとあったんです。それで、その分断を対話することで解けたらいいなと思って、山谷の公民館を借りてホームレスの人たちを集めて彼らの人生を聞く会を3、4回開催したんです。
──やってみてどうでしたか?
すごくよかったですよ。例えばデパートで働いてたんだけど、借金ができて家に帰れなくなって、家庭もうまくいかなくなって上野公園で4日くらい座ってたらある人から声をかけられて山谷に来て30年くらい経っちゃった、という人もいました。
会場からの「今はどんな時に幸せを感じますか?」という質問に、「毎日生活費を稼ぐために空き缶を集めているんだけど、集め終わって朝日を見た時に、ああ、今日も生きててよかったと思うんだ」という答えにジーンと来ちゃったり。
もちろんこういう活動をしたからといって何も問題は解決してないし、何年もやって大きな成果を出せたわけではないのですが、ホームレスも一般の社会人も同じ人なんだなと思ったり、社会が分断されているから改めて埋めなきゃと思ったりしたことがすごくよかったですね。
ひきこもりの問題も実は似ていて、僕の周りのいい会社で働く人は「ひきこもりなんて怠けてるだけだ。助ける必要はない」という人も多い。社会は分断されているんです。だからひきこもりの人を支援することがなぜ大事なのか、社会に説明していかなければならない。例えば、働けない若者が働けるようになることで、税金で生活している人が税金を払う側に代わる。それは、特に今少子高齢化で働き手がどんどん減る今の状況では社会にとってもかなり有益ですよね。
この社会的分断に対する問題意識は昔から強くて、今でもそれに対して自分なりにどう答えを出すべきか、ずっと考えている途中です。今、キズキでいろいろやってる活動の一部はその答えで、そういう意味ではつながっているわけです。
安田祐輔(やすだ・ゆうすけ)
1983年神奈川県生まれ。キズキ代表
藤沢市の高校を卒業後、二浪してICU(国際基督教大学)教養学部国際関係学科入学。在学中にイスラエル人とパレスチナ人を招いて平和会議を主催。長期休みのたびにバングラデシュに通い、娼婦や貧困層の人々と交流を重ねることで、人間の尊厳を守る職に就きたいと決意。卒業後は商社に4ヵ月勤務したがうつ病で退職。1年のひきこもり生活を経て、2011年キズキを設立。代表として不登校・高校中退経験者を対象とした大学受験塾の運営、大手専門学校グループと提携した中退予防事業などを行なっている。
初出日:2017.10.30 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの