防災用のアプリケーションを開発
──具体的にはどんなアプリを手掛けたのですか?
部門全体では、遠隔教育、遠隔医療、通信衛星を用いたIP通信などさまざまなテーマの研究をしていましたが、私がいくつか担当していた分野の中で最もやりがいがあったのが、災害対応のテーマでした。例えば東日本大震災のような大規模災害発生時、周回軌道衛星(宇宙空間から地上の詳細な写真を撮影できる人工衛星)で撮影すれば、被害状況を全体的に把握できますが、周回軌道衛星は1日に2回しか日本の上空を通過しません。つまり12時間に1回しか回ってこないんです。でも大地震が起こった時、もし撮影できる場所の上空を過ぎた直後だったら、次は12時間待つしかなくなり、全体の被害状況は把握できません。地上が壊滅していたら車は役に立たないし、ヘリは燃料や高度の限界から全部を把握しようとしたら数週間から数カ月かかってしまいます。
そこで、広範囲を数時間で撮影できるジェット機ならどうかと。平常時に地上の画像を撮影しておけば、災害発生時、どこが被災しているかも差分データで解析できます。しかし当時、ジェット機から映像をリアルタイムで地上の災害対策本部に送るようなシステムは存在していなかったので、そのシステムを研究開発しようということになりました。高解像のデータをリアルタイムで得るためには静止軌道上の通信衛星を使うしかない。しかし、飛行機に搭載したパラボラアンテナは飛行機がどう飛ぼうとも常に通信衛星を向いていなければならない。なので、アンテナが通信衛星を常に追尾するようなジャイロの開発と実験、飛行時の空気抵抗を考慮したカバーの検証など、さまざまなことに挑戦しました。
これまで誰もやったことのない画期的な研究開発だったので、内閣府、防衛庁、警察庁、消防庁など防災関連機関に飛び込み営業をかけて共同実験を呼びかけ、国家の防災の最大イベント、9月1日・防災の日にその実験が実現しました。
──すごくエキサイティングな仕事ですね。
NASDAの私のチームのメンバーはもちろん、協力してくれるメーカーや政府関係者など、いろんな人と一緒になって同じベクトルで突き進む、新しいことにチャレンジするというのはわくわくしてすごく楽しかったですね。みんなの目も輝いていました。でも最初からそうではなかったんですよ。研究開発には莫大なお金がかかりますが、最初は協力メーカーも「やろうと思えばやれなくもないけど、そんなに急がなくても年間予算の範囲内で何年もかけてゆっくりやればいいじゃないか」という、いわゆるお役所仕事的な感じでした。
でも、そんな時、「いや、僕みたいな民間人がNASDAの研究開発に関わっているんだから、従来とは全然違うペースで毎年バンバンおもしろい成果を出して世の中をあっと言わせましょうよ」と説得しながら接するうちに、「どうせやるなら凄いことやろう、できる」という空気が関係者に生まれ、中には利益度外視でもここまで形にしたい、なんて前のめりなメーカーも出てきたりして、どんどん盛り上がっていったんです。そうなってからの空気は熱く、あの輪の中にいた感覚は今でも私の宝物。本当に素晴らしいものでした。
結局NASDAに出向して3年ほどで退職し、実家に戻ることになったわけですが、この、機運が高まった時に集まる人のパワーというか、同じ目標に向かってみんなのやる気のベクトルが一致した時のエネルギーのすごさ、それを感じられたことは、その後の苦難や難しいプロジェクトに関わる中で、挫けない気持ちを維持できる拠り所になっていると思いますし、今の仕事にもとても生きています。会津漆器の新しいブランドのいくつかのプロジェクトを進めてこられたのも、この時の成功体験が心の支えになってくれていたのだと思います。
夢の仕事を辞め、家業を継いだ理由
──夢だったNASDAに入って充実した毎日を送っていたのに、退職して家業を継ごうと決意したのはなぜですか?
私が32歳の時、父が病に倒れたんです。私は次男だし、実家の会社を継ぐなど考えたこともなかったのですが、丁度その頃、兄が家業を継がないと宣言しました。そんな状況の中、弱っている父の枕元で、35歳になったら会津に戻って俺が家業を継ぐよ、とつい囁いてしまっていた自分がいたんです。それから間もなく、NASDAから新組織立ち上げの話があり、そのメンバーとしてのお誘いを受けることになりました。正直、困りました。会津に戻るのは数年先のことかもしれないけれど、父の様態が優れない状況の当時は、このNASDAからのオファーを受けるべきか否か、かなり悩み、迷いました。でも近しい先輩に相談したところ、将来は不確実、今の自分が後悔しない選択をすべきじゃないか、というアドバイスがあり、NASDA行きを決意できたのでした。そして、充実した期間の後、35歳がやってきたのです。
──やはりNASDAを辞める時、葛藤はありましたか?
そもそも田舎が嫌で会津から飛び出して、どう転んだか一度はあきらめた子どもの頃の夢がかなってNASDAで働けるようになって、しかも仕事もものすごくおもしろくてやりがいがあったわけですから、まったく迷わなかったといえば嘘になりますね。35歳が近付くにつれ、迷いは再燃しましたが、NASDAでの仕事がそうやって周りの関係者に支えられて充実していたからこそ、逆に吹っ切れて、辞めて関美工堂に戻る覚悟を決められたのかもしれませんね。それに、兄が家業を継がず、妹は嫁に行き、そんな状況の中で、やはり父や母の老後の面倒をみたいという思いはかなり強かったです。それから、子どもの頃、工場の隣に住んでいたので、工場が遊び場で社員にもよく遊んでもらっていました。当時はすごくいい時代で全国から表彰記念品の注文が殺到し、会社は人と活気であふれていたのですが、時代の移り変わりとともに経営もジリジリ下がって、会社がどんどん疲弊していく姿を遠くから見ているのもつらかった。だから自分の手で会社を立て直したいと思っていました。父は帰ってこいなんて言わない人ですから、そういう状況の中で帰るのを決断したのはあくまでも私の意志です。
会社を辞める時、出向元の本社の仲間はもちろんですが、NASDAの僕のチームに関わってくれていた研究者の先生や、メーカーの技術者たちがすごく惜しんでくれて、盛大に送り出してくれました。本当にありがたく、いい仲間と仕事ができて自分は幸せだと心底感じましたね。
──実家に帰るにあたって、厳しい状況の会社を立て直せるという自信はありましたか?
もちろんです。これまでの自分の経験・能力・実績からすればできないはずがないと自信満々でした。ところが、実際に会社に入ってみると父から聞いていた経営状況とはだいぶ違う点も多々ありまして(苦笑)。この会社を立て直すのはかなりたいへんだぞと改めて気を引き締め直しました。
関 昌邦(せきまさくに)
1967年福島県出身。株式会社関美工堂代表取締役
子どもの頃に観たテレビ番組などの影響で宇宙関係の仕事を志す。会津の高校卒業後、明治学院大学法学部に進学。1992年、衛星通信・放送事業を行う宇宙通信株式会社(現スカパーJSAT株式会社)に就職。DirecTV(現スカイパーフェクTV)の立ち上げなどに従事。2000年、宇宙開発事業団/NASDA(現宇宙航空研究開発機構/JAXA)に出向。将来の通信衛星をどのように社会に利活用できるかを目的としたアプリケーション開発に従事。2003年、会津にUターンし、父親の経営する株式会社関美工堂に入社。2007年、代表取締役社長に就任。BITOWA、NODATE、urushiolなど新しい会津漆器のブランドを立ち上げ、会津塗りの新境地を開拓。その他、自社製品を含めた会津の選りすぐりの伝統工芸品や、世界各地から取り寄せたデザイン性にすぐれるグッズを扱うライフスタイルショップ「美工堂」などの運営を通して、会津の地場産業の素晴らしさを国内外に発信している。
初出日:2016.12.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの