一つひとつ壁を乗り越えて
──どのようなリハビリを受けたのですか?
眼科的リハビリといって、点字の判読訓練や白杖をついての歩行訓練などです。国立身体障害者リハビリテーションセンターにしばらく通った後、さらに上尾にある県立のリハビリセンターに10ヶ月間、泊まり込みで訓練を積みました。
リハビリはたいへんでした。点字ひとつ取っても最初はどうやってあの点の集まりを指先で読むんだ、わかるわけがないじゃないかと思っていました。それが数ヶ月かけて修練を積むうちに、点が文字になり、文字が単語になりと徐々にわかるようになりました。白杖による歩行訓練もきつかったですよ。指導員も「命にかかわるから自分も命懸けで指導しているんだ」とかなり厳しかったです。なかなかうまくいかず、訓練中にけっこう怒られました。
こんな感じで、点字を学ぶことによって本も読めるしパソコンでメールもできる、歩行訓練をすることによって白杖をついて歩くこともできるようになりました。それまで目が見えないと何にもできないと将来に絶望していた自分から、少しずつできることが増えていくことにより、生きる希望がもてるようになったのです。これが2つ目の大きな転機ですね。
さらにもっと自由に歩くために盲導犬を取得しようとアイメイト協会で訓練を始めました。クロードという盲導犬とペアになって1ヶ月間泊まりこんで訓練した結果、より広範囲を安全に歩く行動の自由を手に入れたのです。
──ご家族の支えも大きかったのでは。
もちろん、大きかったです。左目が見えなくなったときは3人目の子どもがまだ生後半年でした。だから妻には相当苦労をかけました。私が入院するときに、長女を車の後部座席に乗せて次女を背中におんぶして、乳飲み子の長男を前に抱えて、時々母乳をあげながら運転して、入院先に会いにきてくれましたからね。その後も引きこもっていた間やリハビリに通ったり泊まり込みで訓練している間も、私の世話と3人の育児でかなりたいへんだったと思います。リハビリのきっかけを与えてくれたのも妻ですし。妻には感謝しても感謝しきれないですよね。
職場復帰でも葛藤が
──仕事への復帰を意識し始めたのはいつ頃ですか?
10ヶ月間、泊まり込みで行っていたリハビリの最中ですね。同じリハビリセンターで訓練を受けている人たちのほとんどは、リハビリが終わるとマッサージや鍼灸の資格を取って仕事を始めます。自分もそうするしかないのかなと思っていたのですが、県立岩槻高校で物理を教えていた中途視覚障害の宮城道雄先生に出会って「あなたも教職に復職できるから頑張れば」と勧められました。でもそれをなかなか素直に受け入れられませんでした。
──それはなぜですか?
教師として復職する場合は、休職していた現任校への復職が大原則でした。つまり復職したいのであれば秩父養護学校(現特別支援学校)に復職しなければなりませんでした。知的・身体的障害をもつ生徒を全盲の、ましてや盲導犬を連れた教師が教えるというのは前代未聞でとてもできるとは思えなかったからです。
宮城先生は普通高校の先生だから見えなくても工夫と努力で教壇に立てるでしょうが、私がいるところは養護学校なので無理ですよと言うと、宮城先生は、いや、そんなことはない、新井先生ならできると。お互い何度もかなり踏み込んだやりとりをしましたが、最終的には宮城先生の励ましで教師として復職してみようかと考えられるようになりました。目が見えなくなってあきらめることが多かったので、ひとつくらい自分の希望を叶えたいという思いもありました。それで復職の道を選んだのです。両目を失明して3年後の38歳のときでした。
新井淑則(あらい よしのり)
1961年埼玉県生まれ。埼玉県長瀞町立長瀞中学校教師
大学卒業後、東秩父中学校に新任の国語教師として赴任。翌年、秩父第一中学に異動し音楽教師だった妻と知り合って結婚。初のクラス担任やサッカー部の顧問を務め、長女も生まれた絶頂期の28歳の時に突然、右目が網膜剥離を発症。手術と入院を繰り返すも右目を失明し、32歳のとき特別支援学校に異動。34歳のとき左目も失明し、3年間休職を余儀なくされる。一時は自殺を考えるほど絶望したが、リハビリを通して同じ境遇の人たちと出会ったことなどで前向きに。視覚障害をもつ高校教師との出会いを機に、教職への復帰を決意し、36歳のとき特別支援学校に復職。その後、普通学校への復帰を訴え続け、支援者のサポートもあり46歳で長瀞中学校に赴任。盲導犬を連れて教壇に立つ。2014年4月、52歳でクラス担任に復帰。全盲で中学校の担任を持つ教師は全国でも初。著書に『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる』(マガジンハウス)』がある。
初出日:2014.08.04 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの