昼は仕事、夜は授業
──大学卒業後、金沢の高校で国語の教師として勤務した後、上京したということですが、東京に来てからはどのような仕事をしたのですか?

農業系の新聞社に転職し、整理記者として紙面レイアウトの仕事を始めました。そもそも父親が新聞記者だったのでメディアの仕事には興味があり、就職を考える時、マスコミ業界も選択肢の1つとしてあったんです。それに通っていた大阪芸術大学では媒体編集も学んだので、編集の仕事もしてみたいと思い、その新聞社に入ったというわけです。
こうして昼間は新聞社でのレイアウトの仕事、夜は宗教科の教師の免許を取るために上智大学の講座で授業を受けるという二足のわらじ生活が始まりました。
──上京してからも教会には通っていたのですか?
はい。上京した家の近くに教会があったので。というかそれで住む家を決めたんですけどね(笑)。農業系の新聞社で3年勤めた後、キリスト教系の出版社に転職して、書籍編集の仕事を始めました。
実はこの頃、またほのかに神父になりたいという気持ちが沸き上がってきたんですよ。あれだけ封印していたのに。それで通っていた教会で神父になるための指導を受け始めました。しかし、その頃、カトリックの信仰そのものに行き詰まりを感じていました。教義に同性愛は禁じられているとはっきり書いてありましたし、周りにもセクシュアリティのことを話題にする人はいませんでしたから、非常に疎外感を感じていたんです。
また、教会に通っていた信徒の多くがインテリ・富裕層だったことにも違和感を覚えていました。若さゆえの潔癖だったのかもしれません。本来、キリスト教はお金持ちの人のための宗教ではなくて、貧しい人たちのための宗教だろうと。それと、昼間の仕事場もキリスト教系の出版社だし、夜も大学でキリスト教のことを勉強していたのでキリスト教漬けの毎日に何となく嫌気が差して教会から徐々に足が遠のいてしまったのです。
人生を変えたニューヨークへの旅

初めてニューヨークに行った時の写真(1995年)
──それからはキリスト教とは全く無縁の生活に?
はい。教会に行かなくなって半年くらい経った1995年の夏、27歳の時にニューヨークへ1人で行きました。10日間ほどの旅であったのですが、この旅がその後の私の人生を大きく変えるきっかけになったんです。
現地の教会にゴスペルを聴きに行くオプショナルツアーに参加した時のことでした。ツアーに添乗していた日本人の現地ガイドが各スポットでキリスト教に関する解説をしていたのですが、それがことごとく誤った情報で、私が代わりに解説したいという気持ちを抑えるのに必死でした(笑)。

20年前に牧師になる志を与えられたニューヨーク聖ヨハネ大聖堂
コロンビア大学の近くにある聖ヨハネ大聖堂に来たときに、その日本人ガイドが「この教会はユニークな礼拝をしているけど、社会奉仕にもすごく熱心で、エイズで亡くなった人の葬儀を積極的に行っているんです」と解説しました。当時はアメリカのみならず世界中でエイズが猛威を奮っていて、たくさんの人が亡くなっていた時代です。その話を聞いて、「では他の教会ではエイズで亡くなった人の葬儀をしてくれないのだろうか?」と疑問に思い、日本に帰ってから自分で調べようと心に決めました。
その他に印象深かったのは、ニューヨークにもLGBTの集まるエリアがあって、そこにある教会には"All are Welcome."と書いてあったこと。これこそが日本の教会とは違って本来のキリストの精神だ、こういうクリスチャンたちもいるんだと大いに感銘を受けたのを覚えています。
帰国後、再びキリスト教の世界へ
──帰国後はどういう行動に?
このニューヨークでの経験はかなり衝撃的だったので、帰国後すぐにキリスト教とエイズの関わりを調べ始めました。本や雑誌などの資料を読み込むだけではなくて、実際にエイズ患者の支援活動をしている神父や牧師や修道女などに会いに行って直接話を聞きました。その結果、あのガイドが話していたことは正しいということがわかりました。
エイズが流行し始めた1980年代は、エイズ患者やHIVウイルスの感染者にゲイの人たちが多かったので、彼らは社会のあらゆる場所でいわれなき迫害や差別を受けていました。中には「神の罰が下ったんだ」などとひどいことを言う人々も多くて。それは教会も例外ではなく、「当教会の信徒にはエイズ患者はいません」とか「エイズは同性愛者しかかからない病気だ。したがって教会には同性愛者がいないからエイズ患者もいない」などとずっと主張してたのです。だから確かに聖ヨハネ大聖堂やごく少数の教会だけがエイズ患者を受け入れていたし、エイズで亡くなった人の葬儀を積極的に行っていたんです。
もちろんエイズは、HIVウイルスによって引き起こされる病気で、同性愛者だけが罹患する病気ではありません。ウイルスは人を選びませんからね。でも当時の科学的根拠のない偏見で患者のケアや原因究明、感染予防対策などが遅れたのです。アメリカはレーガン政権の時にエイズ対策が後手に回されていました。予算もつけなかったし、役所も対策に消極的だったと聞きます。あの時にきちんと対策を取っていればこれほど世界に広がることはなかったでしょう。

このようなキリスト教とエイズの関わりを調べる過程で、知り合った神父や牧師に「実は日本でもエイズ患者と一緒に歩もうというキリスト教のグループが立ち上がるから君も参加しないか」と誘われて、彼らと一緒に活動を始めました。私たちの教会ではエイズ患者のための活動もしているとお話ししましたが、それはこの時のことがきっかけだったんです(※前編参照)。こういうわけで、いったんは距離を置いていた教会にまた引き戻されていきました。
また、ちょうど同じ頃にLGBTのクリスチャンたちが東京で、シークレットで教会を借りて集会を始めたという話を聞いて参加したのですが、このことで日本にもゲイのクリスチャンが少なからず存在することがわかりました。彼らが大手を振って教会に行くために、シークレットにしなければならないという状況に理不尽さを覚え、彼らがLGBTであることを隠さなくても普通に来られる教会をつくりたいと思うようになったんです。
だからニューヨークに行って、あのガイドさんのいるバスに乗らなかったら教会に戻らなかったし、牧師になって教会を設立することもなかったかもしれないんです(笑)。この時にもやっぱり神様はいるんだなと思いましたね。
生死の境をさまよう
──それから牧師にはどのようにしてなったのですか?
大きなきっかけとなった出来事がもう1つあるんです。30歳の時に肺炎にかかって、生死の境をさまよいました。肺炎で亡くなる人も多いですし、病院で胸のレントゲンを撮ったら真っ白だったので一時は本当に死んでしまうんじゃないかと不安にさいなまれました。
3週間ほど寝込んでいたのですが、ある日、なぜかある1点に視点が固定されて動かなくなりました。それは私がその頃働いていたキリスト教系の出版社で発行されたカレンダーの写真だったのですが、緑の平原の中に小さくぽつんと白い教会が建っているのが見えたんです。自分で編集してる時には全く気づかなかったのに。
その時、何となく神様がすぐそばにいるように感じたんですよ。それで、これまであっちへ行ったりこっちへ行ったりふらふらしてきましたが、もし命を助けていただいたら、神様に私の一生を捧げて、神様のために働きますと心の中で誓ったのです。そしてその後、幸いにも肺炎は快復したので、本気で牧師になって、LGBTの人でも自分のセクシュアリティを隠さずに、堂々と来られる教会をつくろうと決意したのです。
そのために、カトリックからプロテスタントに戻る決意をしました。現在カトリック教会はLGBTをはじめとする性的マイノリティを受け入れようと心を砕いています。今年(2016年)、ローマ教皇フランシスコは「キリスト教は同性愛者に謝罪すべき」との発言もして、変化の兆しが見られるようになってきましたが、当時は、そのような気配さえ感じ取ることができませんでした。それで、比較的自由なプロテスタントの牧師を目指し、教会の設立に備えたのです。
<$MTPageSeparator$>宗教科の教員免許取得、教師に

この翌年の1999年、31歳の時には上京以来通っていた上智大学の夜間講座で宗教科の教員免許をようやく取得できました。取得に7年間もかかってしまったわけですが、上京して最初に就職した農業系の新聞社は夜遅くまで仕事をせざるをえず、ほとんど授業に行けなかったんです。その後転職したキリスト教系の出版社はカトリック系の出版社だったので、早退が認められたり、授業料を支援していただいたりして授業に通えるようになり、たいへん助かりました。
そのあと1999年の春に出版社を退職して、千葉県のキリスト教系高校で非常勤講師として勤務し、1年間だけですが聖書の授業を担当することができました。同時に、非常勤だったので、授業のない日はプロテスタント系の出版社で編集補助の仕事をし始めました。
神学校に入学
───牧師の資格の方は?
千葉の高校での非常勤講師の仕事が終わった2000年、32歳の時に東京・目白にある日本聖書神学校に入学しました。社会人向けの夜間の授業だったので、授業は毎日18時から22時まで。昼間は引き続きプロテスタント系の出版社で編集の仕事をしていました。
───神学校に通っている頃は、ご自身のセクシュアリティについてオープンにしていたのですか?
自分がゲイであることは一部の親友を除き、隠していました。というのは、当時牧師になろうとしていたある人が同性愛者であることをカミングアウトしたのですが、これは教団にとってはセンセーショナルな事件で、教団内に激震が走ったんです。当時、同性愛者の牧師を受容する雰囲気はありませんでしたから。その時、私の周囲の先生や友人たちは、「黙って闘うことも闘いなのだ」「事態が落ち着くまで絶対に隠しておけ」と助言してくれたこともあり、公言しなかったのです。それと、将来はLGBTの人でも受け入れる教会を立ち上げたいということも、事前に知られたら認められないだろうと思ったので絶対に言いませんでした。
また、周りには、神学校を卒業したら一般の教会で安定した牧師人生を歩んだ方がいいと言う人もいました。もちろん私には確固たる目標があったので、そういう言葉は全く心に響きませんでした。
決意を新たにしたカナダ研修
──神学校時代に印象に残っている出来事はありますか?
神学校に入って3年目の夏にカナダの教会に実習に赴きました。カナダは世界で最も同性愛者のための法整備が進んでいる国で、カナダ合同教会では、LGBTの人も正式なメンバーとして迎えるという宣言をしていて、実際にたくさんのLGBTの牧師も活躍しているんですね。
そのカナダでの実習でいろいろな人から話を聞いた時に、1つとても印象に残っている話があります。LGBTの人は、子どもの頃は日曜学校などで教会に頻繁に通うけど、10代になり性のことを考えるナイーブな年代になると、教会の中でLGBT拒否のメッセージを受けることで自然と教会に来なくなる。でも、カナダ合同教会はLGBTを正式なメンバーとして受け入れるという宣言をしたことで教会に戻ってくる人が増えて、さらに教団の本部で働いている人たちなども、自身のセクシュアリティをカミングアウトし始めるようになった。それを目の当たりにしたカナダ人の牧師が「今までの教会はどこか欠けていた。でも、LGBTの人たちが教会に戻ってきてくれたことで、欠けていた部分が補われて、より理想的な形になってきたんだ」と喜んでいました。その時に、日本にもそういう教会を作らなければいけないと改めて強く決意したんです。
母の死

ちょうどこの頃、もう1つ、私の人生に大きな影響を及ぼした出来事があります。それは母の死です。私は一人っ子で小さい頃から病弱だったので、親より先には死ねないと思っていました(父親は私が16歳の時に51歳で他界)。ですので、2002年4月に母ががんで亡くなり、天涯孤独になった時には、大きな悲しみや喪失感はありました。しかしそれと同時に、自分が親より長く生きられたということで少し安堵したところもありました。親不孝しなくてよかったなと。
そして、一人きりになったことで、進むべき道、つまりゲイの牧師としてLGBTの人にも寄り添える教会をつくるという道が最終的に定まったわけです。私は両親に自分のセクシュアリティをカミングアウトしていなかったので、もし親が生きていたら自分のセクシュアリティを公表して、新宿コミュティー教会のような教会を立ち上げて活動することはできなかったかもしれません。
──ご両親にカミングアウトしなかったのはなぜですか?
もしカミングアウトしたら大きなショックを受けるかもしれませんでしたし、そのことで他人から後ろ指をさされかねないと危惧していたからです。
新宿コミュニティー教会設立
──その後、教会はどのようにして設立したのですか?
2004年3月に神学校を卒業して牧師の資格を取得して、その翌月に日本キリスト教団新宿コミュティー教会を設立しました。御存知の通り、新宿二丁目はLGBTが集まる日本有数の街なので、教会の本拠地はここ以外には考えられませんでした。「新宿コミュティー教会」という名称も、この地域の持つ課題と一緒に寄り添う教会になりたいという思いからつけました。
どういう形の教会にするか、例えば新宿二丁目付近に広めの家を借りて住居兼教会として使用しようかなど、いろいろ考えたのですが、とてもそんな資金はなかったので、取りあえず最初はマンションの一室を借りて始めることにしました。新宿二丁目近くにある広さ20平米、家賃月8万円のワンルームで、敷金礼金などの初期費用や教会として必要な備品など全部で150万円ほどを貯金から捻出しました。立ち上げ当初のメンバーは私の他には、私のパートナーただ1人。2人でスタートしたのですが、最初の礼拝には十数名の方々が出席してくれました。
実は設立当初はLGBTだけではなくて、ホームレスの方々も支援したいという思いで衣服や食物を配布していました。その活動を通じて、ホームレスの人たちが野宿している新宿二丁目近辺の公園に10代のゲイやレズビアンが集まっていることがわかったんです。話を聞くと、親にセクシュアリティのことが知られて家にいられなくなり、この近辺で野宿をしながら売春をしているという子も中にはいました。このような現状を目の当たりにして、ティーンズのLGBTへの支援も行うようになったんです。

僧侶の研修会で講演を行う中村さん
最初のマンションでは3年ほど活動したのですが、徐々に他の教会から籍を移してくださる信徒の方々が増えてきて手狭になったので、新宿御苑前にある40平米くらいのマンションに引っ越しました。広さが2倍になった分、家賃も2倍になったのですが、使用するのは主に日曜日の礼拝だけでしたので、3年後には引き払いました。それ以来、常設の教会は持たず、日曜の礼拝だけ新宿二丁目近くにあるホテルの会議室を借りて行うという現在のスタイルになったんです。
減速して生きる40代に
──牧師になってからも編集者の仕事はずっと続けていたのですか?
はい。牧師としての活動ではほとんど収入が得られないどころか赤字でしたからね。当時は出版社の雑誌編集部の主任になっていて、ある時は4人のスタッフで月刊誌を2誌、季刊誌を1誌編集していました。かなりの激務で、週日フルタイム+残業して働いていました。
2009年頃、40代になって身近に健康を害する人、病気から生命の終わりを迎えた人などがいて、改めて自分自身の働き方を見つめ直しました。これまで神学校に通っていた期間を含めると結局10年間は朝から晩まで休みなしで働いていたことになるんですよね。実際、40代に入った頃から、血圧がすごく高くなっていました。そうでなくても両親を病気で亡くしているので健康な家系ではないし、私自身も小学校2年の時にウイルス性の髄膜炎にかかったり、30歳の時に肺炎にかかったりして生死の境をさまよっているので丈夫な体ではありません。そんな中、せっかく頑張って念願の牧師になったのだから、短命で終わってしまったら元も子もない。だからこれからは自分の体も大事にして健康面にもっと気を配らなければと考え方を変えたのです。
<$MTPageSeparator$>新宿二丁目にバーを開店

新宿二丁目で「牧師Bar」を開店(2010年)
──でも牧師の仕事だけでは生活していけませんよね。
そうなんですよ。しばらくは貯金で何とかなっていたのですが、半年ほど経つ頃にはそれも心もとなくなってきました。でももう激務の仕事には就きたくなかったんですね。ではどういう仕事をしようかと考えた時、私は夜型人間でお酒も好き、そして近所の四谷三丁目にはお坊さんが経営する坊主バーがあって、歌舞伎町にはフランス人の神父さんが始められたバーがありました。ならば牧師でもバーができるんじゃないかと思い、2010年7月、残りの貯金をはたいて教会の近くの新宿二丁目にバーを開店したんです。でもいわゆるゲイバーではなくて、一般の人や女性たち、牧師仲間など、いろいろな人が来てくれていました。
おかげさまでけっこう賑わっていたのですが、開店から7カ月後の2011年3月11日に東日本大震災が起こってからは状況が一変しました。私の店はビルの3階にあったのでかなり揺れて、ボトルや食器が全部割れてしまいました。それよりつらかったのは自粛ムードが続いたこと。仕事が終わったら早く家に帰るという人が増えて、ぱったりと客足は途絶えてしまったんです。おそらくその影響で歌舞伎町のフランス人の神父さんが始められたバーも震災から半年後に閉店。私のバーも経営が苦しくなり、翌年の2012年9月に閉店せざるをえませんでした。
再び編集の世界へ
──当時は震災の影響でたくさんのお店が閉店に追い込まれたと聞きます。その後はどうしたのですか?
いろいろなアルバイトや単発の派遣の仕事をしましたが、2014年、またフルタイムで編集の仕事をするようになりました。
──でも以前の出版社を辞めた後は、編集の仕事はしたくないと思っていたのですよね? それなのに戻ったのはなぜですか?

そのきっかけとなった出来事がありました。アルバイトをしている時に、行きつけのバーで出会ったある会社の経営者の人が「受け身で待っていても仕事は来ない。自分ができることをどんどん周りにアピールしていろいろな人に伝えることが大事だよ」と話してくれたんですね。これを聞いたことで、私の中でちょっとした変化が起こりました。
これまでの人生、いろいろなピンチや困ったことがあった時でも、必ずいつも誰かが手を差し延べてくれました。だからその当時も、本当に困ったら誰かがきっと助けてくれるはずと、高をくくっていたところがあったのです。自分では何にもしていないにも関わらず。でもそんな状況ではやっぱり仕事の話は来なくて、たまにやりたいと思う案件が来ても運悪くできなかったりしてうまくいかなかったんです。それでその言葉を聞いた時、受け身でいたことは非常によくないと反省し、今まで避けてきたけれど、やっぱり自分ができること、人の役に立てることは「編集の仕事」において他にないと思い、その日以降、一念発起して「編集でもライターでも校正でも何でもやります」という意志表示を開始。するとそのとたんにいくつも仕事の依頼が舞い込んできたんです。これには自分でもびっくりしましたね。実はいろいろな人が私のことを見ていてくれて、「こういうことができます!」と自分から手を挙げることによって、声をかけてくれたわけです。
その中の1つに資格の学校が出版するテキストの校正の仕事があったので、月曜日から金曜日はフルタイムでその仕事をし、帰宅後の夜間や休日には在宅でキリスト教雑誌の編集の仕事などを請け負うようになりました。そして今年(2016年)の6月からは牧師としての活動を増やすため、少し働き方を変えたというのは冒頭にお話した通りです。(※前編参照)
──将来的には牧師としての仕事だけで生きていきたいという思いはありますか?
いえ、編集や執筆の技術を習得したのも神様のご計画だと思いますし、この仕事が好きですし、それをもって誰かのお役に立てる部分もあると思います。また、一昨年(2014年)には自らが教会の礼拝で話してきたメッセージ集を出版しているのですが、これもキリスト教を知ってもらう活動の一環です。だから今後も何かしら出版の世界には関わっていきたいですね。
ゲイとして生きるということ
──中村さんは10代の頃からご自身のセクシュアリティについて自覚的で、25歳頃にはゲイとして生きることを覚悟したそうですが、これまでゲイであることで生きづらさを感じたことはありますか?
前にもお話した通り、初めてLGBT以外の人にカミングアウトした27、8歳以降、徐々に信頼できる人にカミングアウトしていったのですが、幸いにしてそれによって私との友情が壊れたという人はいません。みんな受け入れてくれたし、差別や偏見を受けたことはないので、基本的に生きづらさを感じたことはないですね。

会社員時代は自分からカミングアウトすることはなかったですが、ゲイですかと聞かれたら「はい、そうです」と答えるというスタンスでした。面と向かって聞かれたこともあまりないですけどね。現在はFacebookなどのSNSでゲイであることは公表していますし、取材などでもそう発言しています。
昨年(2015年)は、メディアにインタビューされることが多かったのですが、その記事が出ると、今年久々に高校時代の恩師に会った時、それまでは会う度に「まだ結婚しないのか」と言われ続けていたのに、言われませんでした(笑)。中高大学時代は誰にもカミングアウトしてなかったんですよねと言ったら、同じ記事を読んだ私の高校時代の同級生は、みんな(セクシュアリティのことを)分かっていたよね、と言っていたそうです。その頃は一切隠してたのに、やっぱりわかってしまうものなんですね(笑)。
ヘイトスピーチも
──ではゲイであることで誹謗中傷を受けたこともないのですね。
日常生活ではそういうことはないですね。ただ、今私がけっこうメディアに出ているで、見ず知らずの人からのヘイトスピーチがなくはないです。特に今年(2016年)のゴールデンウィークの「東京レインボープライド」はけっこうきつかったですね。一般人になりすましたアメリカ人の宣教師が寄ってきて友好的に話しかけてきたんですが、最後にはゲイが「治った」人の体験談のビラをブースの前で撒かれました。また、あるアフリカ系の女性が「あなたたちは間違っている!」と大声で演説して来て私と口論になることもありました。そういうアンチの人もLGBTのフェスティバルには来るんですよね。逆にパレードでは牧師の正装をして行進するのですが、外国人が(好意的に)日本にもゲイの牧師がいるのだとすごく関心を持って近づいてきます。
それから、私たちの教会の礼拝にアンチLGBTの人が潜り込んでくる場合もあるんです。開口一番「ここは変わり者が集まる教会ですか!」と叫ぶ人がいたり、私が話している間は神妙に聞くのですが、その後、心ない言葉をまくし立てたりする人もいます。そういう人たちはLGBTを認めない教会から送り込まれてきているのですが、今年に入ってから増えましたね。

長崎県・鎮西学院で諫早市民を対象にした講演にて(2016年)
ダブルマイノリティのつらさ
──クリスチャンのゲイという点がその原因なのでしょうか。
前にもお話した通り、自虐的に言うわけじゃないのですが、私のような人のことは「ダブルマイノリティ」と呼ばれています。つまり、クリスチャンは日本の全人口の0.8%、LGBTは5%しかいないので2つのマイノリティであることを背負ってして生きなきゃいけない。かといって毎日苦しい思いをしながら生きているという感じでもないんですけどね(笑)。
──ここ数年でLGBTの社会的認知度、理解度は上がってきているような気がしますが、教会は変わっていないのでしょうか。
そもそも教会の方が世の中より10年遅れていると言われていますし、日本のキリスト教もアメリカのキリスト教よりも10年遅れていると言われています。また、キリスト教界の中でもLGB(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル)とT(トランスジェンダー)とは理解が少し異なっているんです。LGBは「自分が好きでそのセクシュアリティを選んでいる」とされ、トランスジェンダーは、性同一性障害とひとくくりにされて、それは自分が好きでなっているのとは違うから「お気の毒」にという理解をする人もいるくらいです。これもひどい誤解なんですけどね。
<$MTPageSeparator$>パートナーのこと
──プライベートについてお聞きしたいのですが、現在、パートナーの方はいらっしゃるのですか?

はい、結婚式も挙げています。なれそめから申し上げますと、前に母が亡くなったことはお話しましたが、私が神学校に入学する少し前に、母が肺がんと診断されました。高校生の時に父を亡くしているので、これでとうとう天涯孤独になってしまうなと思っていた頃、現在のパートナーと出会ったんです。彼は私から洗礼を受けてクリスチャンになり、教会のWebサイトをつくってくれるなど、教会を支えてくれています。
当時私は、昼は出版社で働いて、夜は神学校で勉強して帰宅は深夜という日々だったので、なかなか母の看病ができなかったのですが、代わりにパートナーが母を看てくれていました。よく会社帰りに母の好きなものを買って様子を見に来てくれていたので、母もすっかり彼と仲よくなっていました(笑)。
そんなある日、母は私がいないときに彼に「この子をよろしくお願いしますね」と言ったらしいのです。母には私がゲイであることを告白していなかったので、友だちとして言ったのか、パートナーとして言ったのかわからないのですが......。また、母がもういよいよ危篤という時、病室に来ていた従兄弟が私に「彼女はいないのか?」と聞いたんです。母はそれが聞こえていたらしくて、最期に、息を引き取る直前、吸入マスクを外して「吉基には男のお嫁さんがいるの」とパートナーの名前を言ったんです。
そのパートナーとは母が亡くなって6年後、新宿コミュニティー教会を設立して4年後の2008年に結婚式を挙げて、自分の公正証書を渡しています。母の看病をしてくれていた頃は近所に暮らしていたのですが、その後パートナーが電車で片道1時間ほどの場所に引っ越しました。それほど離れていると何かと不便なので、2013年に私も彼が暮らすマンションの近所に移転。以来、お互いの合鍵をもって行き来しています。
──一緒に暮らさないのはどうしてですか?
パートナーが仕事上でも、家族にもゲイであることをカミングアウトしていないからです。彼の家は家族や友だちがよく訪ねてくる上に、パートナーも私と同じく自宅で仕事をすることが多いんですね。だからそれぞれにプライベートな空間があった方がいいということで別々に暮らしているというわけです。
──現在の関係性に不安はないですか?

先程もお話した通り、私の方には家族、親戚縁者がいないので、私が亡くなった時の葬儀のことや遺産はパートナーが自由にできるように公正証書を渡しています。だからその点は心配ないのですが、ただ、確かに私たちの住んでいる区はパートナーシップ条例もないし、パートナーは家族にカミングアウトしていないので、現状のままでは、彼が突然病気やケガで手術が必要になったときに同意書にサインできないとか、臨終の際に病室に入れてもらえず、死に目に会えないということもあることと思います。いろいろと問題はあるのですが、私たちはまだいざという時の細かな点について至るまでは、お互いきちんと話し合ってはいません。現段階ではまだ答えが出ておらず、プライベートにおける課題のひとつですね。
パートナーシップ条例といえば、昨年、施行された際に、新聞や雑誌の記者たちから「中村さんは渋谷区とか世田谷区に引っ越さないんですか?」とよく聞かれました。でもLGBTの当事者たちがみんな、パートナーシップ条例ができたからといって、すぐ渋谷区や世田谷区に移るかといったらそうではないんですよね。そもそもあのパートナーシップ条例もいろいろ問題があって、区によって違うし、それぞれの個人が抱えている事情だってありますから。何よりやっぱり自分の住んでいる場所を変えなければならない。それは言うほど簡単なことではありません。だからそういう質問をするマスコミの姿勢こそ安易だと思いますね。
伝えたいメッセージ
──一般の人たちへ伝えたいことは?

教会には孤独な人もたくさん来るのですが、そこから心の病になる人も少なからずいます。そういう人たちに一番言いたいのは「あなたは独りではない」ということ。神様も私も仲間もついている。寂しいと思ったら教会に来て、悩みがあるなら相談してほしいですね。人は絶対に独りでは生きていけないですから。
──一般の人たちに、LGBTの人たちを受け入れてほしいという思いは?
みんなにLGBTに対して「偏見をもたないでください」「差別しないでください」「LGBTを好きになってください」とは言えませんよ。どうしても生理的に受け付けられない人もいるでしょうからね。ただ、社会の中にはLGBTのような人たちもいるんだ、ということを知ってほしいというのはあります。いろいろな違いをもつ人たちが共存するのが社会というものだと思うので。あとはLGBTを排除するためにヘイトスピーチをしたり、暴力に訴えるのは絶対にやめてほしいと思います。
──LGBTの皆さんに伝えたいことは?
まず、彼ら・彼女らに伝えたいのは、あなたたちは「何も間違っていないんですよ」「そのままでいいんですよ」ということ。以前の私にようにずっと受け身でうずくまったままでは状況は決して好転しないから、自分自身の力で立ち上がってほしい、その人はその人にしかない持ち味で生き生きと生きてほしいということです。
それから、これはいつも講義や講演をするときに話しているのですが、一番伝えたいのは〈いのち〉を大事にしてほしいということですね。自分のセクシュアリティって、自分で決めたわけではないですよね。決して悪いことをしているわけでもない。だけど、それを苦にして自殺する人がすごく多いんです。
あるカウンセラーの方が打ち明けてくれたのですが、東日本大震災の際に男性同士のカップルが仮設住宅に入ろうとしたところ、周りの被災者に「あの人たちは友人同士ではなく、ゲイなんじゃないか」と噂され、入居できなくて近くの民間アパートに入らざるを得なかったのだそうです。ある日曜日にカウンセラーが彼らのアパートの近くを通った時に、救急車と消防車が止まっていて、なにかあったのかと不安に思ったらそこで2人とも自殺してしまっていたというんですね......。おそらくアパートでもいわれのない差別を受けたのでしょう。だけど彼らが誰に迷惑かけたというんですか。自分のセクシュアリティで絶対に死ぬことはないですよ。自分の〈いのち〉は大事にしてほしいですね。
今後の目標
──今後の目標を教えてください。
これまでささやかながら関わってきた中で得たものを活かしながら、LGBTに関することを書いて本として出版したいですね。今、いくつもの本の企画を考えています。
新宿コミュニティー教会の牧師としては、LGBTであるかどうかに関わらずいろいろな人と関わりながら、多くの幸せに立ち会いたいと思ってます。それから、死別ではなくて親との関係性が切れてしまっているLGBTがたくさんいて、そういう人たちは亡くなっても家族にお骨を受け取ってもらえない人も多いんですね。お寺では無縁仏として引き取ってもらえますが、教会ではやってくれません。教会や牧師の存在意義は人々に安心を与えることにあると思うので、いつかは身寄りのないLGBTが安心して入れる納骨堂(合祀墓)ができたらいいですね。
また、まさかLGBTがこんなに社会で話題にされ、認知されるようになろうとは夢にも思っていませんでした。そんな社会になるのは自分が死んでしばらく経ってからだと思っていたので。私のパートナーは自分のセクシュアリティをカミングアウトすることには消極的でしたので、私がカミングアウトするときにもずっと反対していました。それは彼が社会人になってから会社の飲み会の席で「お前はホモなんじゃないか」と3時間も4時間も詰問された経験があるので、カミングアウトしてもひとつもいいことはないんだ、というトラウマをもっているからなんです。

私が社会に対してカミングアウトする時、反対していたパートナーに「今、私がカミングアウトすることで報われなくてもいい。100年後の性的マイノリティの人たちが『自分たちが生きやすい社会になったのは、100年前に当事者が権利獲得のために活動を頑張ってくれたからだ』と言ってもらえたらそれだけでうれしい。そのためにカミングアウトする」といって説得したんですね。
今も実際に少しずつ変わってきています。例えばトランスジェンダーの人たちの多くは、しばらく前までは夜の世界の飲食業などでしか働き口がなかったのですが、今は議員としても大学教員としても活躍している人がいます。それだけでなく活躍の場は多岐にわたっています。こういった例は次の世代への力になることです。キリスト教もいつか「性的マイノリティの牧師や神父がいて普通」になってくれたらいいですね。
だから今後もさまざまな活動を通して、人の性的指向や個性、長所が生かされるような多様性のある社会になることに少しでも貢献していきたいと思っています。