漫画家を目指して
──後編ではこれまでの人生の歩みを聞かせてください。子ども時代になりたかったものは?

小学生の頃から漫画家になりたいとずっと思っていました。当時から当事者意識が欠けているというか、身の回りで起こる出来事は全部ネタだと思っていて、何事も距離を置いて「これ漫画にしたらおもしろいかな」といつも考えているような子どもでした。
母に漫画家になりたいと話すと「手塚治虫は医者になれるほど勉強したんだから、漫画家になりたければもっと勉強しなきゃ」と言われました。それ以来、ずっと哲学や宗教関係の本を読み、高校卒業後は大学の哲学科の通信コースに入りました。
──学生時代から漫画を描いていたのですか?

作画風景
はい。20歳くらいの時に某女性漫画雑誌の漫画賞に応募して、期待新人賞をいただきました。初めて本格的に描いた漫画だったのでとてもうれしかったですね。当時好きだった漫画家は手塚治虫や白土三平など昭和の漫画を作った人たちでした。日本を代表する漫画原作者の小池一夫先生原作の「子連れ狼」も大好きでした。
それで、大好きな作家の元でプロの漫画家を目指したいと思い、小池一夫先生の「小池一夫塾」に一期生として入り、1年間、名古屋から毎週東京に通いました。小池塾では絵のクオリティよりも締め切りまでに決められた枚数の漫画を描くということを徹底的に叩きこまれました。それができない人はどんどん脱落して、最初に60名いた塾生も最後は10名ちょっとしか残りませんでした。私は絶対に漫画家になると思っていたので毎回きちんと課題をこなし、修了しましたが、小池塾が終わった後は漫画を描くのが嫌になったんです。
──それはなぜですか?

小池先生の教えは、まず売れる漫画を決められた期限までに描けるようになることが最優先で、自分が描きたいものはそれができるようになってから描けというものでした。その教えは今なら確かにおっしゃる通りだと思えるのですが、当時は若かったのでとにかく売れることを考えて漫画を描くのが嫌になり、自分が本当に描きたいと思うものを好きなように描きたいという欲求が抑えきれなくなったんです。それで小池塾を修了した後、名古屋にある芸術系の大学に入り直しました。
──やはり専攻したのは絵ですか?
いえ、白黒の2次元の漫画の世界から逃げたかったので、極彩色の映像や立体作品の制作、3次元のパフォーマンスなどに没頭しました。プロはギャラに見合ったものを締め切りまでに創らなければなりませんが、学生は好きなものを好きなように創ればいいのですごく楽しかったですね。
<$MTPageSeparator$>24歳で漫画家デビュー
──漫画の方は全然描いてなかったのですか?

いえ、それが24歳の時、知り合いの紹介で、ある情報誌で連載することになったんです。それまで漫画を載せたことがない媒体だったので自由に描けて楽しかったですね。ジャンルはストーリー漫画で3年間連載したのですが、このとき小池塾で学んだことがすごく役に立ちました。
──特にどういう点が役に立ったのですか?
一番役に立ったのは先ほどお話した、クライアントから求められている枠の中でおもしろいものを締め切りまでに毎月きっちり描くということです。だから締め切りが苦しいと感じたことは1度もありませんでした。
また、小池先生の漫画制作の哲学は、「漫画はキャラクターが命だからキャラクターづくりが一番重要であり、キャラが立った主役さえ生み出せれば、あとは勝手に動いてくれる。だから漫画家はカメラマンに徹して追っていけばいい」というものでした。それを忠実に実践したおかげで1度もアイディアに詰まったこともないんです。
連載を重ねていくうちに読者もついてきたのですが、連載から2年半ほど経った時に情報誌の発行元の事情で打ち切りの話が出ました。でも私の漫画を楽しみにしているファンのために原稿料はいらないから最終回まで描かせてほしいと頼み込んで最後まで描ききったんです。これは1つの大きな自信になりましたね。
上京を決意
──大学を卒業後はどうしたのですか?

3年間の漫画連載をやり遂げたことで再び漫画への情熱が燃え上がりました。当時、小池一夫先生が神奈川工科大学で漫画の作り方を教えていたので、もう一度漫画を勉強し直そうと聴講生として毎週通い始めたんです。その時、講義の場以外でも漫画家が集まる会に積極的に参加して、第一線で活躍している漫画家の話を聞いて刺激をもらって名古屋に帰っていました。
また、名古屋でも東京でもいろんなパーティーや異業種交流会などに参加して名刺を配りつつ「漫画家です。仕事をください」と営業活動をしたり、アルバイト先の飲食店で知り合ったお客さんに売り込んで時々イラストや漫画の仕事をいただいて描いてました。でもそれだけでは全然生活していけず、メインの収入源はアルバイトでした。自分でも向いていると思っていたしけっこう稼げていたのですが、目標はあくまでも漫画で食べられるようになることだったので、このままではいけないと悩んでいました。そんな時、東京の知り合いの漫画家が、漫画家を集めて会社を作るから一緒にやらないかと誘ってくださったので、東京に出ることにしたんです。
<$MTPageSeparator$>上京して漫画系制作会社に就職
──上京後は具体的にどういう仕事をしていたのですか?

知り合いの漫画家が作った会社は漫画を使った結婚式ムービーや企業紹介ムービーを作る会社でした。漫画家は内気な人が多いから主に企業に漫画を売り込む営業としても働いてほしいと頼まれ、漫画家兼営業職として働き始めました。その時、名古屋で個人的にやっていた営業活動の経験が生きたんです。東京でもいろんな会社に行っては、営業活動して仕事を取っていました。でも完全歩合制で、その割合も低かったのでお小遣い程度の収入しか得られませんでした。当然とてもそれだけでは生活はできなかったので、繁華街の飲食店でアルバイトを始めました。
少しでも人脈を増やそうと、漫画家や編集者、記者などのマスコミ関係者が集まる店に通って、営業活動もしていたのですが、そんなある日、漫画家の東陽片岡先生の店のイベントに参加しました。私は東陽先生の作品は全巻持っているほどの大ファンだったので実際にお会いできて大感激。いろいろとお話させていただいて、そのお店で昭和歌謡を歌ったら東陽先生に気に入っていただけて、それ以来よくご一緒させていただくようになったんです。そしてある晩、東陽先生が新太郎師匠と引き会わせてくださって、弟子にしていただいたんです(※詳細は前編参照)。

東陽片岡氏のイベントにて
ただ、流しになるタイミングはあまりよろしくなくて。というのはちょうどその頃、同業他社に転職して、新しく名刺を作ってスーツも新調して、社長と一緒に得意先の挨拶回りを済ませたところだったんです。でも絶対に師匠と一緒に流しをしたかったので、社長に「大変申し訳ないのですが、流しになるから会社を辞めます」と辞意を伝えました。
温かい社長
──社長の反応は?
第一声は「何だって? もう一回言ってごらん?」でした(笑)。でもその経緯や私の思いを話したら、「君はスポットライトを浴びる側の人間だから裏方の営業なんてやってる場合じゃない。流しを頑張りなさい」と認めてくれて、応援までしてくれたんです。でもせっかく新しい名刺をたくさん作っていただいたので、その分は配り切ろうといろんな会社を回って全部担当者に渡してきました。その会社から来た漫画の問い合わせは全部社長に繋いでいました。

──一応筋は通したわけですね。しかし社長はいい人ですね。
本当にいい人なんです。私が流しになってから荒木町に何回も来てくれたり、いろんな人を紹介してくれたりといまだにかわいがってもらってます。私は人の縁でここまで来たんですよね。自分がやりたいことをやるだけではなく、出会った人を大事にして頼まれたことを地道にやっていけばいろいろと繋がって、結局自分の行きたいところにたどり着けるということに気がつきました。それは財産ですよね。
──元々漫画家になるのが夢だったわけですが流しになったことについては?
実は漫画家になりたいと思う前、幼稚園の頃の夢は歌手になることだったんです。よく自宅のテーブルの上で歌っていたのですが、家族や友だちにほめられて喜んでいました。だから今は歌と似顔絵をやれているので、2つの夢が同時に叶っている最高な状態なんです。
<$MTPageSeparator$>流し以外の活動
──現在、流し以外に取り組んでいる活動は?
師匠が第二日曜日の15時から17時まで荒木町のお隣町にあるかふぇオハナさんで「流しカフェ」をやっているので、私も時間が許す限りサポートに行っています。お客さんが歌わないときの穴埋めに歌ったり、似顔絵を描いたりしています。
個人的な活動としては、たまにビジネス用のイラストや漫画を描いています。それも流しで出会ったお客さんから依頼をいただくことが多いんです。例えば名刺に掲載するカットから、1ページもののイラスト、数ページの漫画までさまざまですね。会社のキャタクターデザインを頼まれることもあります。これまでカフェなどでイラストの個展をやったこともあるんですよ。
ちえさんの作画風景とイラスト作品。お客さんの要望に応えようとした結果、劇画からゆるい漫画まで、描けるタッチのバリエーションが増えた。これまで数回個展を開催している。さらに切り絵も得意としており、その腕はプロ級
でもイラスト・漫画の仕事は趣味に近いですね。縁があって依頼が来たもの以外は描くつもりはなくて、これから絵の仕事を増やしていこうとも思っていません。あくまでも本業は流しなので、絵に時間を取られて流しがおそろかになったら元も子もありませんからね。
あとは、これも趣味の範疇ですが、メンバー全員が猫耳をつけてライブをやる「猫バッカス」という音楽バンドを組んでボーカルを担当しています。ライブでは流しではやらないような曲、例えば昭和歌謡の中でも新しいものや、ジャズ、シャンソンなどを歌っています。基本的に不定期で、お店からライブをやってほしいという要望があったときにメンバーと日程を調整して出演しています。メンバーは全員プログラマーや大工など本職をもっていて、ライブのときだけ集まります。「大人の部活動」のようなコンセプトでやっているんです。今は好きなことをやれているので精神的なストレスは全くないですね。

バンド「猫バッカス」
師匠の漫画を描きたい
──今後の夢や目標は?

可能なかぎり新太郎師匠と一緒に流しを続けたいと思っています。でも親しい人からは、「師匠は74歳だから今後そんなに長く流しを続けるのは難しい。年齢や体力的な問題で流しができなくなった時どうするか、身の振り方を考えておきなさい」と言われてるんですよね。まだ真剣には考えていないのですが、もし本当にそうなったら師匠の後を継いで1人でも流しを続けたいと思っています。芸の幅を増やすために三味線も習い始めました。本当にできるかどうかはわかりませんが挑戦したいんです。
──流しを後世に遺していかなきゃという使命感はあるのですか?

新太郎師匠72歳の誕生日記念に描いた似顔絵
それは全くないです。本当に流しが好きだから、もっとやりたいという気持ちだけです。この世界に入る前は、こんなに好きになるとは思っていませんでした。それに、「遺していかなきゃ」というような大上段に構えた偉そうな心持ちでいると誰も寄り付かなくなるので、変な使命感なんてもたない方がいいと思うんです。師匠のように生きていくためには流しをするしかなかった、それで気がついたら60年近く経っていた、というのが理想で、そうしてみんなに愛されるといいなぁと思います。
もう1つの夢は師匠の漫画を描くことです。戦争孤児から始まって、戦後の動乱期をギター1本で独りで生き抜いてきた激動の人生を漫画にしたら絶対おもしろいと思うんですよね。それができるのは、長い間師匠の一番近くで話を聞いている私しかいません。師匠が元気なうちに絶対描きたいですね。