教師になる予定が......
──後編ではまず小沼さんがクロスフィールズを立ち上げるまでの経緯を教えてください。そもそも学生の頃からビジネスと社会貢献をつなげるような活動をしたいと思っていたのですか?

いえいえ、大学を卒業したら教師になるつもりでした。小中高といい先生に巡り会えたことと、高校時代に『陽のあたる教室』という映画を観て、教師って人の人生にこんなにも影響を与えられるんだと感動して、僕も教師になりたいと思ったんです。
──どんな教師になりたいと思っていたのですか?
中高時代は野球部、大学はラクロス部に所属して、顧問の先生からかなり影響を受けたので、僕も将来は学校の部活動の顧問になりたいと思っていました。それで大学では教職過程の単位を取り、教員免許を取得しました。
──それなのに教師にならなかったのはなぜですか?
僕が取ったのは高校の社会科の教員免許だったのですが、僕自身が社会を知らないまま生徒に社会科を教えるというのはどうなんだろうと疑問を感じました。それでまずは社会に出てみようと。一般の企業に就職するのもよかったのですが、普通ではなかなか見られない変わった世界を見てみたい、おもしろいことを経験してみたいと思っていました。そんなある日、電車に乗ったとき青年海外協力隊募集の中吊り広告が目に止まりました。それまでは青年海外協力隊には全く興味がなかったのですが、こういうのもちょっといいかもと興味を引かれ、JICA(国際協力機構)が主催している青年海外協力隊のOBと触れ合える会に参加してみたんです。そして、出会ったOBの方が最高にカッコいい方で、僕もそんな大人になってみたいと隊員への参加を決めました。大学卒業後、大学院に進学すると同時に、休学して中東のシリアに赴任することになったんです。
──そのとき電車の中吊り広告で青年海外協力隊を見なかったら人生変わっていたかもしれませんね。

確実に変わってましたね。今頃どこかの学校の先生をしていると思います。でも、実は今も教育に携わっている気持ちではいるんですよ。もともと僕は人に影響を与えたいという想いから教師を目指していました。振り返れば協力隊での経験こそが自分に一番影響を与えたなと感じるので、協力隊のような経験を誰かに提供することこそが、もっとも人に影響を与えられる手段だろうと。そう考えて今、クロスフィールズという組織で、僕が教師としてやりたいと思っていたことを全部やるつもりで、こうして事業に取り組んでいるんです。
青年海外協力隊員としてシリアへ
──協力隊員としてシリアではどんな活動を?
活動の前半は、人口2000人ほどの村に住み込んで、貧困層向けに低金利で融資を提供するマイクロファイナンスの事業に携わっていました。本当は環境教育の業務を行うはずだったのですが、配属されたNGOで環境分野の活動はストップしていて、「おまえはいったい誰だ?」と言う状態でした。そりゃあびっくりしましたよ。僕は一体何しにシリアに来たんだって(笑)。ただ、それでも必死に活動をして、マイクロファイナンスの活動でも成果をあげていたとは思います。
ただ、青年海外協力隊事業を手がけるJICAとしては、やはり環境の仕事をしてほしいということで、配属先のNGOを変更にすることになりました。まだ任期はかなり残っていたので、自分で環境教育活動の企画書を作成してシリアの民間企業やNGO、政府組織に片っ端から飛び込んで、こういう活動をやらせてほしいとプレゼンしました。すると首都ダマスカスの環境局が採用してくれて、現地の小中学生向けの環境教育プロジェクトを一緒に作れることになったんです。それからはいろいろ試行錯誤が続いたのですが、僕の後にも後任の隊員が何代かにわたって派遣されていましたし、そういう意味では何らかの結果は残せたのではないかなと。

青年海外協力隊としてシリアで環境教育活動に取り組んでいた小沼さん
──全然知らない国で、自分で仕事を作って働き口を見つけてきっちり結果まで出すってすごいですね。「話が違う」と何もしないでそのまま任期をやりすごす人もいると思うのですが。
逆に、予定通りにいかないことが多発するのが、青年海外協力隊のいいところだと思うんです(笑)。もちろん僕に起きたことは客観的にみたら最悪といえる事態だったかもしれませんが、それを最悪で終わらせるかどうかは自分自身の問題。そういう最悪の事態を成長のチャンスと捉えることができる人にとっては、こんなにいいプログラムはないわけです。
<$MTPageSeparator$>人生を変えたシリアでの経験
──シリアでの活動で得た収穫は?

僕の人生を変えるほどのたくさんの収穫がありましたが、一番大きかったのは、働く喜びや幸せの価値観をシリアの人たちに教えてもらったということですね。シリアに行く前は、いい学校に行っていい会社に就職すれば幸せになれるという価値観や、経済が発展している富める国が貧しい国を救ってあげるという図式でしか世界を見ていなかったのですが、それが見事に壊されたんです。
実際、最初は「よし、困っているシリアの人たちを助けてあげるぞ」という気持ちで行ったのですが、逆に助けられることの方が多かったし、僕たちより彼らの方が幸せそうに暮らしていることに衝撃を受けました。仕事に関しても、何のために働くかという「働く意義」をしっかりと自覚していて、多くの人が、生き生きと自分の仕事の意味について語っていました。そんな彼らを見て、価値観やものの見方が逆転したわけです。確かに経済的な軸だと日本が優っているけれど、幸せ軸ではシリアが完全に上だと感じました。そのとき、正しいことというのは1つじゃないし、価値観の物差しは沢山あるんだなと思ったんです。
もう1つ、赴任先のNGOで、ドイツの経営コンサルティング会社からプロボノとして派遣されてきたドイツ人経営コンサルタントたちと出会ったことも、その後の僕の人生に大きな影響を与えました。僕は教師になるつもりだったので、ビジネスには全然関心がなく彼らの役割も知りませんでした。でもそのドイツ人たちはコンサルタントとしてのスキルを使ってNGOの経営課題を次々と解決していったんです。その光景を目の当たりにしたとき、ビジネスというものが社会貢献や国際協力の世界でも価値を発揮できるんだと衝撃を受けました。
そして、はじめはクールに仕事をこなしていたコンサルタントたちも、現地の情熱あふれる人たちとともに社会課題に向き合ううちに、その情熱が伝播して、彼らもまたより目を輝かせて仕事をするようになっていったんです。そんな彼らの様子を見て、「ビジネスと社会貢献の世界をつなぐことで、新しい価値が生まれるかもしれない」と思い始めました。これがクロスフィールズを立ち上げて留職プログラムをスタートさせる原点となったんです。
コンパスポイント設立
──帰国後はどうしたのですか?

2年間の任期を終えて帰国したときの僕はシリアでの衝撃的な経験ですっかり興奮状態。これを早く大学時代の友人たちに話したいとみんなを集めて居酒屋で熱く語りました。みんなも興奮して聞いてくれると思っていたのですが、彼らはすでに大企業に就職してサラリーマンになっており、「こっちは毎日の激務でそれどころじゃないよ。いいよなお前は、いまだに夢ばかり語っていられて」みたいなしらけムードに。ほとんどの友人にはまったく響かず、逆に引かれてしまいました。学生時代は「社会を良くしよう」とあんなに熱く語り合っていたのにと、かなりショックを受けました。
でも中には「確かにお前が言っていることは正しい。そんなことは忘れかけていた」と言ってくれる友人もいて、その友人たちと定期的に居酒屋に集まって熱いことを語り合おうという話になりました。この会を「コンパスポイント」と名付け、2007年12月に活動をスタートさせました。最初のうちは飲み会レベルだったのですが、同じような想いを持つ仲間たちが徐々に集まってきて、社会起業家などを会に呼んで話を聞くという勉強会のような形に発展していきました。

コンパスポイントで主催していた勉強会の模様
同時に、シリアでの経験を通じて抱いた「社会活動とビジネスをつなぎたい」という夢を実現するためには課題解決能力を身につけなければと思い、コンサルティング会社に入社しました。その就職活動の過程で後にクロスフィールズを一緒に立ち上げることになる松島由佳と出会い、意気投合。彼女とは何かの縁があると直感的に感じて、コンパスポイントの活動にも巻き込みました。
コンパスポイントの活動を始めたのは僕が就職する直前だったのですが、コンパスポイントを立ち上げた最大の理由は、僕自身が就職して情熱を失うのが恐かったからかもれません。会社で働くのは3年間だけと決めて面接でもそう公言していましたが、このときは将来的に起業しようとは全く思っていませんでした。
コンサルティング会社で得たもの
──外資系の戦略コンサルティング会社に入ってどうでしたか?

すごくよかったです。3年間という短い期間ではありましたが、問題解決のスキルを身につけられたし、自分よりも数十倍も優秀な人たちと一緒に仕事をするという刺激が常にありましたから。
──コンサルティング会社で働いているときは現実的に起業を考えていたんですか?
そうですね。入社2年目にアメリカに滞在していた際、複数の現地のNPOを訪ねて、いろんな人に話を聞いて、初めて自分自身で事業モデルを書くという経験をしました。その頃ですね、自分で団体を立ち上げることを意識し始めたのは。
当時、コンパスポイントも立ち上げから3年が経過した頃で、そろそろイベントを開催するだけではなくてもう一歩先に進んだことをしようと、NPOの活動を支援するプロジェクトをスタートさせました。支援したのは世界の食の不均衡をなくすというコンセプトで活動している団体で、松島がリーダーとなって最後までやりきりました。
<$MTPageSeparator$>退職メールを書いているときに大震災が
──その経験は留職で起業することにつながっているのでしょうか?

つながっています。ビジネスで培ったスキルを活かしてプロジェクトを成功させ、NPOの活動に貢献できたことに自信を深めて、「NPOとビジネスがつながる機会をもっと増やしていきたい」という想いをさらに強くしました。また、プロジェクトに参加していたメンバーたちが自分のスキルを活かして世の中の問題解決に貢献することで、彼ら自身も生き生きしているのを間近で見て素晴らしいと感動しました。
一方で、僕の青年海外協力隊の経験との違いも感じました。会社終わりとか土日だけ片手間でボランティア活動をするのと、数ヶ月~数年というロングスパンで現地に滞在し、100%の時間を使って全力で取り組むのとではコミットのレベルが違うので、やはり後者の方がより人が変わる「原体験」になりやすいだろうなと感じました。だからボランティア活動やプロボノ活動の発展形として、現地NPOに数ヶ月間出向して100%全力で支援活動に打ち込む留職の仕組みを作ろうと考えたのです。
そういったことを含め、コンパスポイントのメンバーで起業について話し合い、2011年3月初め頃に現在のクロスフィールズの構想がおぼろげに固まりました。そしてメンバーの中でも中心的だった僕と松島の2人でまずはクロスフィールズを立ち上げようという話になり、予定通り3年で勤めていたコンサルティング会社の退職を決めました。しかし、退職のメールを書いていたその瞬間に東日本大震災が起こったんです。
大震災を乗り越えて起業
──大震災で予定が大幅に狂って大変だったのでは?
翌週以降のスケジュールは全部白紙に戻りました。とにかく自分たちの事業はいったんストップして被災地の支援をやろうと、緊急支援のNPO団体のスタッフとして2ヶ月間、被災地向けに物資輸送をする活動に従事しました。このときほど寝ずに仕事をしたことはないというほど、この活動には全力で取り組んだことを覚えています。
そして5月の連休に東京に戻り、松島と事業計画を改めて練り直し、2011年5月3日にようやくクロスフィールズを創業したんです。

クロスフィールズを創立した頃。共同創立者の松島さんと
100社以上に断られる
──立ち上げてからはどうでした? 留職というこれまでにないプログラムを企業はすんなり受け入れてくれたのでしょうか。
やはり立ち上げからしばらくは厳しい状況が続きました。仲間や知り合いのつてをたどって100社以上の企業を訪問しプレゼンしたのですが「前例がないから導入できない」と断られ続けました。でもコンパスポイントの仲間たちが「うちの会社にも提案しよう」「うちの人事を紹介するよ」と、次々と僕らに企業を紹介して励ましてくれたんです。このとき心が折れなかったのは本当に彼らのおかげですね。
突破口となったのは、営業に行ったある企業の方のひと言でした。留職は現在は海外の団体への派遣が主ですが、そもそもは国内にこそ深刻かつ大きな課題たくさんあるので「青年"国内"協力隊」という名称で、それに挑戦し解決していく人たちを増やしたいと思っていたんです。今でこそ「地方創生」という文脈でかなりニーズが高まってはいますが、私たちが起業した2011年当時はそのことを企業にいくら訴えても「何を言っているんだ。それで人がどう育つのかわからないし、会社にとって何のメリットもないじゃないか」と全然相手にしてくれませんでした。もう本当にニーズがなかった。でも何度も企業に足を運んで説明していく中で、ある企業の人事部の方から「今企業に求められてるのはグローバル人材だと言われてるから、海外への派遣だったらありえるんだけどね」という言葉をいただけたんです。

クロスフィールズのスタッフと一緒に
それを聞いた時、なるほどそうかと思わず心の中で膝を打ちました。国内でも海外でも留職の基本的なコンセプトは同じで、大事なのは参加した人が既存の企業の枠組みの中から外に出て社会の課題と向き合い、会社のリソースと自分のスキルを使って現地のために何ができるのかを考え、行動するということなので。むしろ海外の方が挑戦のフィールドがより広がるし、文化の違いもわかりやすい。その分、赴任した本人はより多くの刺激を受けて、激的に変化する可能性が高い。だからまずは海外でやってみようとプログラムを作り直して再び企業をまわり始めました。

そんな中、プレゼンに行ったパナソニックさんで「仕事を通して途上国の課題を解決したい」という想いを持つ社員に出会いました。彼らに留職のコンセプトを熱く語ったところいたく共感して、彼ら自身が社内で留職の導入を働きかけていただきました。そのおかげで立ち上げから約1年の2012年2月、ついに初めて留職を導入していただけたんです。このときはすごくうれしかったですね。これ以降、これまでの苦労がウソのようにどんどん導入してくださる企業が増えていったんです。留職導入第1号になっていただいたパナソニックさんはもとより、海外でやった方がいいんじゃないかとアドバイスいただいた方に深く感謝しています。
<$MTPageSeparator$>今後の展望
──今後の展望を教えてください。
それをまさに今、団体の中で再構築していこうとしているところです。方向性はいくつかありますが、1つはターゲットを広げるということです。これまでは比較的若手の社員向けにプログラムを提供してきたのですが、今後は経営幹部向けのプログラムを作っていきたいと考えています。実際、まさに今、いくつかの企業において、経営幹部が新興国のNGOをめぐるスタディツアーのようなことを企画しています。
また、プログラムの価値を突き詰めることも大事だと思っています。人材育成だけが留職の価値ではなく、そこから新しい事業やコトが起きる可能性だってあるはずです。そういう観点で、より新しい価値を生み出せないかという挑戦をしていく予定です。
──今後国内での留職を増やしていくお考えは?
国内でのプロジェクトは2014年から着手しています。もちろん今後増やしていく考えがありますし、実際に増えています。先ほどもお話しましたが、そもそも国内と海外との分けが本質的なものではないと今でも思っているので。

新興国現地NPOのスタッフと
仕事と家庭のバランス
──日々の働き方ついて教えてください。現在ご家族は?
結婚していて、もうすぐ2歳になる娘がいます。
──仕事と家庭のバランスは?

うちの奥さんはキャリア志向で今もバリバリ働いているのですが、彼女の仕事上の挑戦を応援したいという気持ちが強く、子育てなどはできる限り分担してやるようにしています。保育園の送り迎えも、日によって担当を分けながら協力してやっています。土日は仕事が入ることもありますが、何もなければできるかぎり家族で過ごすように心がけています。とはいえ、それがなかなかできずに怒られていたりもするのですが...(笑)。
そもそも僕は仕事と家庭をあまり分けて考えていないんですよね。妻が生き生きと働くということは、広い意味では僕がクロスフィールズの活動を通して目指している世界と合致するので、まずは一番身近なところからやっていこうと。それができなければ自分のやってることに説得力をもたせることができませんからね。
──小沼さんにとって働くということは?
自分の志を体現することです。今は幸いにも、まさにこのために生きていると思えることを仕事にして取り組めているので、いろいろ大変なことがあっても乗り越えられるんですよね。
幸福は後から振り返ったときに感じるもの
──現在大きな理想に向かって突き進んでいるわけですが、小沼さんご自身は今、充実感や幸福感は感じていますか?

今が充実しているとか幸せを感じているというのとはちょっと違うと思いますね。幸せというのは振り返ってから感じることなんじゃないかと。例えば創業期は、「この先、生活していけるかすらわからない」という悲壮感に支配されていたけれど、今振り返れば「あの時はがむしゃらで楽しかったし、幸せだったなぁ」となります。同じように、現在はこれからの組織のあり方や事業を再構築していくことに悩み苦しんでいる時期ですが、2、3年後に振り返ったとき、あのときの苦しみは健全な苦しみだった、幸せだったと感じるでしょうね。
ただ1つ、確実に言えるのは、常に困難に逃げずに向き合ってはいるので、自分自身に後ろめたい気持ちはないですね。志や使命から逃げたら一番後悔すると思うので、今、後悔しない生き方をしているという自負はあります。これからもどんなに苦しくても自分自身に恥ずかしくないように、誠実に生き、働いていきたいと思っています。