社会人1年目で妊娠、退職
──端羽さんのこれまでのキャリアについて教えてください。大学を卒業後はどのような会社に入社したのですか?

大学卒業後、外資系証券会社の投資銀行部門に入社しました。父が熊本の地銀に勤めていて、金融は産業を育てる社会のインフラだと話していたのを聞いて金融に興味をもったからです。また、普通の銀行よりも新しい金融の分野にチャレンジできそうな気がしたので投資銀行を選びました。当時付き合っていた彼も同様に忙しい会社への就職が決まっていたので、お互いかなり忙しくなるだろうから結婚しておこうかと大学卒業直前に結婚しました。その予想は大当たりで、1年目から毎日朝から深夜2時3時頃まで働いて、0時に帰宅すれば今日は早かったねと言われるほどの激務でした。
──どんな仕事をしていたのですか?
例えば外資系企業の日本法人が日本の証券取引所に上場する際の資料を英語で作成したりしていました。その他にもさまざまな会計資料を作る上でのたたき台の作成なども。自分が手がける作業が目に見える形になる仕事だったので、涙が出るほど忙しかったのですがやりがいも大きかったですね。入社1年目の新人にいろんな仕事を任せてもらえていろいろ勉強になったしありがたかったです。なにより外資系証券会社で学んだのが根性。当時の先輩たちは「誰でも99%まではできる。最後の1%までやりきることができるのは限られた人間だけだ。俺たちはその最後の1%までやりきって100%目指せる人間なんだ!」とよく熱く語っていました。みなさんすごく熱くて仕事に対するコミットメントがすごい人たちばかりだったので、そういう環境が働くことの意識の基準を上げてくれたと思っていて、その後の人生にもかなり活きました。
でも、就職して半年ほどで妊娠したので2002年3月に外資系証券会社を退社しました。辞めるときは申し訳ない気持ちでいっぱいでした。会社は妊娠したからといって辞めなくてもいいんじゃないか、産休と育休を利用して落ち着いてから戻ってくればいいじゃないかと言ってくれてありがたかったのですが、そうはいっても妊娠したらそれ以前のように深夜2時3時までバリバリ働くことなんて到底できません。配慮してもらった分、だれかにしわ寄せがいき、迷惑をかけることになります。しかも実績も何もない1年目だったので余計に会社に迷惑をかけたという気持ちの方が強かったので、産休や育休を利用させてもらうだけの資格が私にはないと思っていたんです。当時は若気の至りで負い目を感じてまで働きたくないと思い、会社からのありがたい申し出をお断りして退職したんです。
出産、資格取得、海外へ

退職後、2002年6月に娘を出産した後、11月にUSCPA(米国公認会計士)の資格試験を受けました。出産後も働く気はあったので、何か武器を身につけておきたいと考えたからです。当時は乳飲み子を抱えていたのでいきなりフルタイムで働くというよりは資格をもったスーパー派遣みたいなものを目指そうと。何の資格がいいかなと検討したとき、外資系証券会社での仕事を通じて会計と英語の知識とスキルは多少、身につけられていたので、その2つがあれば仕事には困らないだろうとUSCPAを取ろうと思ったんです。
しかし、最初はスーパー派遣として働こうかと思っていたのですが、やっぱりこの先何があるかわからないので正社員としてフルタイムで働こうと思い直して、USCPAの資格試験の勉強と同時並行で求人サイトに登録するなど就職活動を開始しました。するとエージェントから外資系化粧品会社の経営管理の仕事を紹介されて、USCPAの合格通知が届く前の2003年3月、子どもが9ヶ月のときに入社しました。入社動機は、ブランドの予算を作って予実を管理するという仕事がおもしろそうと思ったことが1つ。もう1つは妊娠していたときお腹が大きいとファッションは楽しめないけど、お化粧だけは楽しめたので、初めてそのとき化粧品に興味をもったからです。外資系化粧品会社での仕事は会計の知識を活かせたこともあり、とても楽しく、充実していました。でも働き始めて1年ほどで夫が海外にMBA留学したいと会社を辞めて家で勉強し始めたので、私が外で働いて、夫が主夫みたいな感じになりました。
その後、夫がボストンにある大学への留学が決まったので外資系化粧品会社を辞め、2004年8月に一家でボストンに渡りました。夫の留学期間は3年だったので、1年は主婦をして残りの2年は私もビジネススクールで勉強しようと2005年9月にマサチューセッツ工科大学(MIT)のスローンスクール(MBA)に入学しました。当時子どもは3歳だったのですが、大学付属の保育園があってそこにあずけていました。子連れで入学している人はアメリカ人含めてもほとんどいなかったですね(笑)。
MITでMBA
──なぜ端羽さんもビジネススクールに通いたいと思ったのですか?
私はそもそも新しいものを生み出す仕事がしたいという思いが強く、当時は起業したいと思っていて、そのために勉強したいなと。あと、一国一城の主になりたいという気持ちも強かったのですが、当時幼い子どもがいてすでに2社を経験しているので、これから先どこかの会社に就職しても組織の中で出世してトップに立つことが想像できなくなっていました。1社目で人に負い目を感じながら生きていきたくないなと強烈に思ったので、ならば自分で事業を作って起業してまさに自分の城を作り、大きくしていく方をやりたいと思ったんです。
──1社目を1年目で妊娠して辞めたことの衝撃がかなり大きかったんですね。

どの企業も新卒採用には結構なお金をかけますよね。それなのに入社半年で妊娠して、午前0時に帰宅できれば早いねといわれるような職場で自分だけ早く帰ることに申し訳なさを感じていました。その負い目に耐え切れず1年で辞めてしまったことで同僚や先輩、上司に多大な迷惑をかけてしまったという強い罪悪感も感じていました。だから起業したかったというより、もう会社員になりたくない、雇われる人になりたくないという思いの方が強かったのかもしれません。
それでMBAに提出するエッセーにも「将来は自分でビジネスをやりたい」と書いたんですが、入ってみると自分の甘さを痛感しました。というのは、当時ボストンはバイオベンチャーブームで、再生医療など最先端の分野で起業プランを練っている超優秀な人たちがたくさんいて、彼らを間近で見ていると私レベルが起業したいというのはおこがましいなと思ったんです。私は儲かる事業を見極める目も金融の知識に関してもまだまだ中途半端だったので、まずはそれらの分野でしっかり腕を磨いてから起業しようと考え直したんです。
──MITに留学してよかったと思うことは?
学生のときにアメリカとイギリスに2回短期留学したことはあるのですが、ちゃんと留学したのはこのときが初めてでした。先ほどの話とも関連するのですが、周りの超優秀な同級生とこれからやりたいこと、人生プラン、キャリア目標などについてたくさん議論したことがものすごくよかったです。子どもを産んで会社を辞めて主婦に戻ったことで1回後方に下がったような気がしてしまっていたのですが、もう1度自分が働く最前線に立てると思えたんです。野心が戻ってきたというか気合いが入りましたね。
<$MTPageSeparator$>離婚、帰国、再就職
──MBA修了後はどうしたのですか?

ボストンにいる頃、もう1つ大きなライフイベントがありました。夫との離婚です。当時子どもがまだ5歳だったので、2007年6月に帰国して翌月にはこれまでの経験で身につけた会計と金融の両方のスキルが活かせる投資ファンド会社に就職しました。そこでは現状のままだと成長が望めない会社を買収して、戦略を練って再成長させ、価値が上ったところで売却し、より高いリターンを得るという仕事をしていました。お金を他の金融機関からたくさん借りて会社に投資するわけですが、その会社の事業がこれから伸びるかどうかを一所懸命調べて勉強し、たくさんの法律家や会計士さんたちと一つの大きな会社を経営するような仕事だったのですごくおもしろかったですね。このときの経験は、実際に経営者になった今にかなり活きてますし、投資を受ける側として、当時の経営者の気持ちが痛いほどよくわかります(笑)。
──そんなに仕事が楽しかったのになぜそのまま勤務し続けなかったのですか?
理由はいくつかあります。1つは、買収される会社にとってみれば一生に一度あるかないかというレベルの大きな決断をしてもらうわけですが、そのときまだ35歳くらいの女性の私がお話しても説得力に欠けるのが自分でもわかっていました。職場の上司からも「どうすれば君がもっと営業成績を伸ばせるようになるかを考えたらどうか」というようなことを言われていました。決定的だったのは、1年に1度年末に社長と一緒に1年を振り返るイヤーエンドレビューというセッションです。2011年末のセッションで社長から「君はよく頑張っている。分析して実務をこなす仕事はちゃんとできている。でも、新しい大きな買収案件を取ってくるとかチームを育てるといったもう一段上の立場を目指さなければいけない」と、とうとうと諭されました。そのとき社内で最年少という立場が長く続き、経験不足も痛感していて、この先この会社で私自身がさらに上のステージに登ることがイメージできませんでした。そこで「一段上のポジションに行ける気がしません。このまま社内にいるより逃げ場がない場所に自分を追い込んでプレッシャーをかけた方がいいと思う。背中を押されたと思って会社を辞めて、自分で起業します」とタンカを切ってしまったんです。でもこのときはまだどんなビジネスをやるか決めていませんでした。とにかくキャリアの壁を打ち破りたかったんです。

もう1つの大きな理由はちょうどその頃、娘から「中学受験をしたい」と相談されたことです。子育てを手伝ってくれていた姪が1年間イタリアに留学に行ってしまい子育てを頼めるあてがなくなってしまった。さすがに1人で投資ファンドの仕事をしながら娘の受験を応援するのは無理だと思い、これもいいタイミングだと思ったんです。
でもすごく温かい社長で「本当にそれでいいのか? しばらく冷静になってちゃんと考えなさい」と言ってくれて、私の決意が変わらないことを伝えた後もきりのいいタイミングまで会社においてくれました。しかも今でもいろんな方を紹介してくれるんです。だから当社のメンバーがうちに転職してくるときには「辞めるときは必ず今の職場に応援してもらえる形で辞めておいで」と言っています。
起業
──起業はどのタイミングでしたのですか?
社長に辞意を伝えたのが2011年の年末で、退職したのが2012年7月なのですが、その前の2012年3月に会社だけは作って、投資ファンドの仕事をしながらビジネスモデルを考えていました。
──どうしてビザスクのようなサービスをやろうと思ったのですか?
まずは、娘が中学受験の準備を始めるタイミングだったのでできるだけ家で仕事ができるビジネスをやりたいと思い、どういう方法があるかまずはネットで検索してみました。その過程でクラウドソーシングのサービスを見つけたのですが、初めてその仕組みを知ったときは衝撃を受けましたね。デザイナーやエンジニアが全然知らない人からインターネットでどんどん仕事を取っていけることを知り、これは今までにない、すごく新しい働き方だと思いました。でも世の中の大半は私のようなビジネス総合職のような人たちで、職人系の人たちのように「これが自分のスキルです」とはなかなか言い難いけれど、こんな私たちだってこれまで得た知識でできることは結構あるはず。そう思ったのがビザスクにつながる最初の原点かもしれません。
もうひとつは、自分のキャリアを振り返り、周りの友人たちの状況を考えたとき、当時私は35歳で、友人たちは駆け込み出産ラッシュでした。みんな10年くらい仕事をしているので働くことにはそこそこ満足し、子どもを作ると、優秀な人ほど家庭に入っていました。それはもったいないなと思いつつ、でも私自身も専業主婦だった時期があるのでそうしたい気持ちもわかる。でも30代半ばでいったん仕事から離れると40代でもう一度会社に就職するのはけっこう難しいだろうなということもわかっていました。そういう彼女たちが自身の持っている知識や経験を活かせるサービスが作れないかなと考えるようになったんです。同時に、投資ファンドでの経験から会社が成長するには人や情報が必要不可欠だと痛感していたので、個人の知識を会社の事業に生かすサービスって社会的なニーズがあるんじゃないかとも考え、その線でアイディアを100個考えて手帳に書き出しました。

同時にいろいろ調べる中で、アメリカに個人が自分の経験を生かして商品を勧めてECとして販売するというWebサービスを発見したとき、私のやりたいこととかなり近いと思いました。こういうサービスを日本でも作りたいと企画書を書いたのですが、これで本当にいけるのかわかりません。私の周りには起業している人が少なかったのでつてをたどって、企画書をもっていろんな人にアドバイスをもらいに行きました。その中の一人、紹介してもらったある著名な経営者にプレゼンしたところ、1時間めちゃめちゃダメ出しされてコテンパンに叩きのめされました。重要なことを何も考えていない、この企画書は数字遊びでしかない、成功確率0%とか2000%失敗すると言われて(笑)。でもそれがすごくありがたかったのです。
人生を変えた1時間
──全否定されたのにありがたかったとはどういうことですか?
彼は実際に自分で物販サービスの会社を作って運営していたからこそ物販のたいへんさが誰よりもわかっていた。だからこそ私の事業計画のダメな所を容赦なく、的確に指摘できた。そのとき、やっぱりコンサルタントではなく、実際に自分でその事業を実践したことのある人の言葉だからこそ説得力がものすごく強いと痛感し、とてもありがいと思った。今、私、めちゃくちゃ役に立ったとまさに身をもって体験して、これは絶対に社会的なニーズもあるはずだと確信したんです。それでこのアドバイス自体をマッチングするサービス、つまりアドバイスがほしい人と経験者のアドバイスをつなぐサービスはどうでしょうとその場で彼に言ったら、似たようなサービスがアメリカにあると。そこでいったん帰って調べてみることにしました。本当に私の人生を変える、目からうろこの1時間でした。
<$MTPageSeparator$>「0から1%に」
──まさに今のビザスクのサービスそのものですね。

そうなんですよ。ただ、彼にたどり着くまでに2カ月くらいかかりました。もっと早く彼に出会えていれば、私は最初のECのアイデアをもっと早く捨てて違うことを考えられたのにと思うと時間がもったいなかったなと。これもビザスクのようなサービスがビジネスとして成り立つと思った大きな要因です。自分で彼のような人を簡単に探せていればもっと早くこのサービスを発想できていたはずですからね。
それでその人に教えていただいたアメリカのサービスを調べてみると、一握りの超優秀な専門家と、高額な料金を払える一部の会社をつなぐサービスでした。アイデアや助言など形のないサービスに高額のお金を払う習慣が一般に根付いていない日本では成り立たないと思い、一部の有名な専門家だけでなくその分野で実務経験のあるすべての人と、その分野の情報、アドバイスがほしいすべての企業や個人をつなぐサービスを考え、有料ですが、中小零細企業や個人でも気軽に利用できるように料金を安めに設定しました。それからもう一度企画書を作ってその人のところにもって行ったら「成功確率が0から1%になったかな」と(笑)。ですので、ビザスクが生まれたのはその人のおかげなんです。以降、彼は私のメンターのような感じで今でもたまに会いにいってお話をうかがっています。
覚悟を決めた瞬間
──そこからどうやって会社とサービスを作っていったのですか?
Webサービスを作ろうにも、どうやって作ればいいか皆目わからなかったので、今度は知り合いのつてをたどってWebエンジニアを紹介してもらいました。当時は別の会社に勤めていたのですが、私と会う日にたまたま同じエレベーターに乗った同僚のエンジニアも1人連れてきてくれて、ランチを食べながらビザスクのプランを話しました。そうしたらありがたいことに、週末に手伝うくらいでいいならノーギャラでシステムを作りますよと言ってくれて。その2人は今、当社の社員になっています。私と話したのが運の尽きですね(笑)。

エンジニアとの創業時合宿の模様
彼らの協力のおかげで2012年12月にベータ版ができました。まずは知り合いだけのクローズドで運営しようと思っていたのですが、認証のかけ方を知らなかったのでオープンになっていて、知らない間に少しずつユーザーさんがつき始めたんです(笑)。そしたら1人のエンジニアが、このサービスはおもしろいから今働いている会社を辞めてこっちでフルタイムで働いてもいいかもと言ってくれました。
でも社員を雇えるだけのお金はなかったので、2013年5月くらいから資金調達のためベンチャーキャピタルを回り始めたのですが、「アイデアもいいしコンセプトもおもしろい。でも投資は難しい」と断られました。理由を聞くと「気合いが足りないから」と。当時はまだエンジニアが別の会社の社員として勤務しながらうちの仕事を手伝ってくれている状態だったので、「彼を本気であなたの会社で働こうと思わせられないのはあなたのリーダーシップが足りないからだ」「今のままではあなたのチームが成功するとは思えない」とズバリ言われてすごく悔しい思いをしたのと同時に、その瞬間、気合いが入りました。
そこからお金を稼げそうな情報を必死で集め始めたら経産省の「多様な人活支援サービス創出事業」を知り、企画書を提出したら2013年7月に採用され、支援金をもらえることになりました。それで1人のエンジニアは8月からうちで正社員としてフルタイムで働くことを決意してくれて、ビザスクも10月末に正式オープンにこぎつけました。12月にはもう1人のエンジニアもフルタイム勤務になりました。振り返ればあのときのベンチャーキャピタルの方の「気合いが足りない」という言葉が大きなターニングポイントになりましたね。

──サービスと社名の由来は?
最初のサービス名は「walkntalk」だったんですよ。「歩きながら話そう」という意味で、気軽に人の話を聞きに行けたらいいねという思いを込めたのですが、誰もウォークントークって正しく読んでくれなかったんです(笑)。それで「walkntalk」はあきらめて、「ビジョン(vision)をアスク(ask)する」サービスなので2つの言葉をくっつけて「visasQ」ビザスクにしました。アドバイザーは細かいことだけではなく、いろんな経験を通じて得たビジョン、意見までを答えられるというサービスを目指すという思いを込めました。最後の文字「Q」はクエスチョンのQです。
社員を雇って起業した理由
──そもそもどうしてひとりではなく、社員を雇って起業しようと思ったのですか? 端羽さんのキャリアがあれば1人でも十分稼げるし、社員を雇ったら責任とリスクが生じますよね。

確かに前職が特殊な仕事だったので、フリーランスとしても私と娘が生活できる分は稼げるとは思っていました。ただやはり1人ではやれることも社会に対するインパクトも限界があるので起業して仲間と一緒にやりたいと思ったんです。また、うちのエンジニアは優秀なのでうちの仕事がダメになってもいつでも次の仕事が見つかると思っていますが、彼らは収入が下がってもうちに来てくれたし、私のやりたいことのために時間を費やしてくれた。このプロジェクトの成否いかんで彼らのその後の人生は大きく変わる。彼らにも家族はいますからね。だからこのプロジェクトは絶対に成功させなければならないと覚悟を決めたんです。
──起業して新しいビジネスを生み出す決断をするとき、もしうまくいなかったらどうしようという不安はなかったのですか?
それは全然考えなかったですね。起業にチャレンジするだけでも私の価値が今よりも上がるに違いないと思っていたので。MITに留学したときと同じ感覚ですよ。海外留学は会社を辞めて、高い授業料を払って行くわけですが、起業はただでいろんな手段を使ってプロジェクトに挑めます。何かリスクがあるというわけではないですよね。万が一うまくいかなければ何か他に仕事を見つければいいだけですし。もちろん私はこのプロジェクトがうまくいくはずだと確信していたので、どっちに転んでもアップサイドしかないという感じでした(笑)。
<$MTPageSeparator$>謙虚に、一所懸命

ビザスクのスタッフのみなさんと
──夢や目標はいつも自分には絶対に達成できると信じて挑戦しているのですか?
大抵のことは努力すれば叶うとは思いますが、自分が絶対に実現、達成できると思っているわけではありません。そもそも私が立ち上げたビザスクというWebサービスはいろんな人にアドバイスをもらってやりたいことを実現させようとか問題を解決しようというのがコンセプトなので。自分自身も一所懸命努力して知恵を振り絞って、それでも足りない部分はそれをもっている人から謙虚に学ばせていただきたいと思っています。すごく努力したら、きっとより遠くまで到達できるはずだし、それは誰にでもできうることだと思います。
──すごく前向きですね。落ち込むこともないのですか?
もちろん私も人間なので失敗したり嫌なことがあれば落ち込むことも娘に愚痴ることもありますが、あんまり引きずらないですね。そもそも落ち込んでも何にもいいことないですからね。1日落ち込むと時間をひどく無駄にしたような気がして。これはよくメンバーにも話すんですが、失敗は目標設定が間違っていたか、努力のやり方が間違っていたか、努力の量が足りなかったかのどれかが原因で起こるもので、全部改善できるから落ち込む必要なんてない。間違っていたところを変えればいいだけなんですよね。だからあんまり落ち込まないし、気持ちを切り替える必要もあまりないんです。あとは、何事もこうあらねばならないとは極力決めないようにしています。それも落ち込まない理由の1つかもしれないですね。
今後の女性の働き方
──起業家の立場として、これから女性の働き方がどう変わるか、感じていることがあれば教えてください。

最近、特に女性活用の話が活発化しているのは肌で感じています。女性が結婚や出産などで一度会社を辞めてもまた戻ってきやすくなる社会になることが重要だと思っているのですが、今は1回会社から出たら終わりなので、会社も個人もお互いにすごく気を遣わないといけない。それが会社も個人も不幸にしていると思います。
また、いくら働き方が自由になっても、フルタイム勤務がなくなるわけではないので、それをコアとして一定期間休んだり1回辞めたり戻ったり、副業が自由になったりと、もう少し企業における人の出入りや働き方が柔軟になればいいと思います。そういう意味では一部の大企業には、女性がいったん辞めても5年以内ならいつでも会社に復帰できるという制度が設けられていますが、すごくいい制度ですよね。
また、産休・育休はまさにその人をトレーニングする絶好のチャンスなので資格を取るために勉強する機会を与えるとか他の会社に短時間出向させるなどすればいいと思います。例えば私たちベンチャーは猫の手も借りたいほど忙しいので、2時間でも毎日手伝ってくれたらすごく助かるしうれしいわけです。働く方も長期間全く働かないよりは1時間でも2時間でも働いている方が社会との接点ができて精神的にもスキル的にもプラスになるわけですしね。出産は働き方を考えるタイミングなので、新しい働き方は女性が作っていくんじゃないかなと思っています。
働くシングルマザーへ
──働くシングルマザーに伝えたいことがあればお願いします。

「働くシングルマザー」とひと口にいってもさまざまな状況、事情を抱えている人がいるのですごく難しい問題だと思います。ただ、母子家庭はパパとママの両方がそろっている家庭と比べたら1つ欠けているかもしれないですが、周りに応援して手伝ってくれる自分の親や親戚、ママ友など頼りになる人がたくさんいるような状況を作っておくことが大事だと思いますね。私の場合も、夫がいた頃よりよっぽど助けてくれる人が増えて幸せだなと思います。ほかに助けてくれる人がたくさんいたらシングルじゃないってことですよね。その方が、両親がいるけれど社会的に孤立している家庭よりも全然ハッピーだと思いますよ。
だから私は娘に「パパがいなくてごめんね」とは絶対に言いません。いつも「みんなに愛されてよかったね、みんなに育てられて幸せだね」と言っています。極力、子どもに足りないものに目を向けさせないようにしようと思っていて。不幸だと言えないような雰囲気を作っているんです(笑)。
──手伝ってくれる人を増やすためにはどうすればいいのでしょう。
まずは遠慮せずに「手伝って」と言葉で伝えることですね。日本人は困ったときに誰かに助けを求めることが苦手なのでどんどん言っていいと思います。助けてもらったらちゃんとお礼を言うことと、逆にその人が助けを欲しているときは必ず手伝ってあげること。あとは、子どもは社会の宝だからみんなで協力しながら育てようって言えばいいと思います(笑)。
究極の目標

──端羽さんを動かしている原動力は?
一番は「社会にいい影響を及ぼしたい」という思いですね。そのためにどうすればいいかをいつも考えています。自分が死ぬときに「私はこれを成し遂げたんだ」と思いたいですね。そうすれば自分の人生に満足できますから。だから子育てでもなんでもやれることは全部やっておきたい。死ぬときに自分がいたことで社会が何か少しでもよりよく変わったと感じることができればすごくうれしいと思います。
──最終的な夢や目標は?
子どもの頃は歴史の年表に載るような人物になりたいという野望をもっていました(笑)。今はひと言でいえば幸せだなと感じることですかね。どんなときに一番幸せを感じるかというと、新しいものに出会ったり新しい刺激をもらったり、自分や娘、会社も含めて成長したと感じたとき。だから死ぬまで働きたい。うん、生涯現役。これが究極の目標ですかね。