一生の仕事とは
──鮫島さんは美術学校を卒業して最初に就いたデザイナーの仕事で、シーズンごとに商品が変わり、ものづくりへの愛着が感じられない仕事に疑問を感じるようになったと思ったとのことですが、そこからどのようにキャリアを切り開こうと考えたのですか?

私は具体的にどういう仕事であれば人生をかけてやれるのか、満足できるのかと考えたのですが、なかなか答えが見つかりませんでした。やりたいことは、本当にいいもの、長く大切に使ってもらえるものをつくること、そして好きなことは、デザイン、アート、クリエイション、イノベーティブなこと。デザインという仕事そのものは好きで、やりたいことでしたが、今の化粧品のデザインという仕事は一生の仕事じゃないということは分かっていました。しかしどうすればいいかわからず、その頃は日々悶々としていました。
──その突破口はどのように開いていったのですか?
自分一人で悩んでいても埒があかないので、NPO関係やビジネス、デザイン、アート系の勉強会に参加したり、いろんな人と会って話を聞いたり、いろんな本を読んで自分で考えたりしました。そういうことを繰り返していく中で、表現やアートは、哲学や価値観を発信し、それが誰かの心に響き、生き方に対する考えを変える可能性やイノベーションを秘めていること、デザインは、それらを一般の人々が享受しやすいよう、製品など目に見える形に落とし込まれた結果であるということ、すなわち、ものづくり自体は、上記要素をもちうるおもしろい仕事であるはずで、尊く、価値がある行為だということに気がつきました。そして私の場合、作る人、売る人、買う人みんなが幸せになるようなものづくりをしたいと強く思えるようになりました。ここまで来るのに1、2年ほど悩みました。
決定的だったのが、ある勉強会で出会った元青年海外協力隊員の方のお話です。彼から青年海外協力隊の仕事の中にデザイン系のものもあると聞いて、デザインの仕事で何か人の役に立てるのであれば、そこに私が求めているもののヒントがあるかもしれないと思い、入社して3年3カ月が経った頃に会社を辞めて青年海外協力隊のデザイン隊員として、エチオピアに渡りました。
エチオピアへ
──英語は堪能だったのですか?

いえ、子どもの頃、父の仕事の関係で海外で生活していたので、苦手ではなかったのですが、堪能というレベルでもなかったです。ただ赴任前に英語研修もあるとのことでしたし、なんとかなるだろうと思い、応募しました。
デザイナーという職種では3カ国からの要請がありました。その中にエチオピアもありましたが、エチオピアはアフリカの貧困国であり、何かと大変そうだなと、最初はむしろ敬遠していました。
しかし、今となっては「呼ばれた」としか思えない出来事がありました。青年海外協力隊に申し込んだ後実際に赴任するまで、好きな国を周ろうと、会社を辞めて海外旅行に出かけました。南米に2カ月、東南アジアに1カ月、計3カ月間旅行して、その間にJICAから青年海外協力隊選考の合格通知が来ていました。その後、たった一週間の間に、見ず知らずの、それぞれ全くつながりのない3人の外国人に、「エチオピアはいい国だ」と言われたんです。しかも3人とも私の方からエチオピアの話はしておらず、普通の会話の中で彼らの方からエチオピアの話が出てきたのです。実は青年海外協力隊でエチオピアからオファーが来ていてという話をすると、みんなからぜひ行くべきだと勧められました。
当初はエチオピアではない国にしようかなと思っていたのですが、こんなに短期間の間にこれだけエチオピアの話が出てくるのは普通ではありえない、これも何かの思し召しなんだろうと、JICAにエチオピア赴任を承諾するメールを送りました(それ以降、帰国するまでエチオピアの話は誰からも出ませんでした)。そして2002年2月、青年海外協力隊のデザイン隊員としてエチオピアへ赴任しました。
<$MTPageSeparator$>衝撃のエチオピア

雄大な自然に囲まれたエチオピアの村
──それは確かに運命としかいいようがありませんね。実際に御自身の目で見たエチオピアの第一印象はどうでしたか?
まずはやはり日本とは比べものにならないスケールの大自然に圧倒されました。また、エチオピア人も素朴で純粋でとてもいい人たちばかりでした。
一方で、すさまじい貧困を目の当たりにし、衝撃を受けました。道端に日常的に人が倒れており、生きているのか死んでいるのか分からないような人々を多く見かけました。仕事がなく、日々の生活の糧が得られず困っている人もたくさんいました。また、電気や水道、ガス、道路、医療などのインフラも整っていないので、日常生活にもかなり支障をきたしていました。こういう現実に身を置く中で、この国のために、デザイナーである自分ができることは何だろうかと深く悩みましたが、私はとにかく自分にできることから始めようと思い直しました。
仕事の面でも想定外のことが待ち受けていました。配属された派遣先がデザインとは関係のない職場で、デザイナーである自分にできる仕事は、ほとんどありませんでした。後から聞いたら、そういうことはよくあるようで、仕事らしいことはほとんどしないまま、赴任期間を終える人もいるようでした。私は自分が本当に望む人生のヒントを求めてエチオピアに来たので、このまま何もしないで帰るわけにはいきませんでした。そのため現地でもいろいろな人と会ったり、派遣先以外でデザインの仕事を探してボランティアで取り組んだりしました。その中で、情熱をもって仕事に取り組んでいる現地の職人に出会い、またエチオピアならではの素材やデザインを見つけ、それらの潜在的可能性にも気づくようになりました。
帰国半年前には、青年海外協力隊の皮革隊員として派遣されていた友人と話し合い、外国人である私たちがエチオピアから得たインスピレーションをもとに、ドレスや靴を製作し発表する、ファッションショーを企画しました。早速、手伝ってくれるスタッフやモデルを募集し、一緒にファッションショーを作り上げていきました。慣れない作業で苦労しましたが、ショー本番は大いに盛り上がり、大成功の内に終了しました。参加者からはとてもよかったといううれしい感想を多数いただきましたし、日本大使館からも「日本とエチオピアの友好史上に残る偉大なイベント」として表彰されました。さらに、このときファッションショーの企画に参加してくれたメンバーの一人が、現在の現地パートナーとなり、この時の体験が今の活動の原点となっています。
再びアフリカへ
──帰国後はどうしたのですか?
この2年間の経験で、エチオピアがもつ潜在的可能性を秘めた素材と人材、そして私のデザイン力を生かして、作る人、売る人、買う人、みんなが幸せになる「エシカルなものづくり」ができないだろうかと、友人とともにファッションブランドビジネスの構想を練り始めました。しかしこのときは2人ともビジネスの知識や経験が皆無だったこともあり、継続的に収益を生み出すビジネススキームを作り出すことができず、一度起業を断念しました。
その後、一度体系的にブランドマネジメントを学ぼうと、日本ブランドの商品開発とデザイナーとして働こうと決意しましたが、その頃再びJICAから短期ボランティアの要請が来たため、内定を蹴ってガーナへ赴任しました。
──ガーナではどのような仕事を?
職業訓練校でアクセサリーなどのハンドクラフト作品の製作指導をしていました。これまで手づくりで何かをつくったことのない人に、デザインの仕方やつくり方を教えるという難しい仕事でしたが、その時の経験が、今の仕事、例えばエチオピアの職人にバッグづくりの指導をする上で大変役に立っていると感じています。

ガーナの職業訓練校の生徒たちと
ガーナでは、素材自体は現地で調達した比較的安価なものを使用するのですが、ハンドクラフトの最終加工製品をつくることで付加価値をつけ、それを販売するというフェアトレード事業を立ち上げました。その事業の中では、実際に製作している人が、製作工賃としてお金を得るという体験をしたとき、とても喜び、次の仕事へのモチベーションがすごく上がったこと、また買った人も、こんなにいいものを買えたと喜んでくれたことが、非常に印象深かったです。作る人、買う人、両者が喜んでいる姿を目の当たりにしたとき、ここに私がやりたいことの可能性があるなと気づきました。そういう意味で、ガーナでの経験は今の事業を立ち上げる上でとても大きいですね。エチオピアでもフェアトレードのコンセプトは頭のどこかにはあったのですが、ガーナでそれが確信に変わったという感じです。とても有意義な4カ月間でした。
<$MTPageSeparator$>グローバルトップブランドへ
──日本に帰国してからは?

先ほども触れましたが、ガーナに赴任する前、エチオピア発のラグジュアリーでエシカルなファッションブランドを立ち上げようとした際、デザインや商品のコンセプトや製作方法などはいくらでも思いつくのですが、事業計画の策定や資金調達、マーケティング、物流の仕組みなど、ものづくり以外のブランドマネジメントに関する様々な知識が足りていないことに気付きました。そこでガーナから帰国後はグローバル企業に入り、それらを徹底的に身に付けようと決め、就職活動を開始しました。
ガーナから帰国して就職活動をしていたとき、同時に英語の習得にも懸命に取り組みました。グローバル企業の場合、英語力の高さを証明できなければ、その後の業務に支障をきたすと考えたからです。私の今の英語力はそのときに習得したといっても過言ではないくらい、必死に勉強しました。その努力の甲斐あって、2005年に世界的に有名なフランス系のラグジュアリーブランドにマーケティング職として就職しました。
──働いてみてどうでしたか?
ブランドとはどういうものか、世界的トップブランドであり続けるために具体的にどのような戦略をもって動いているのかなどを、実務を通じて学ぶことができ、とても実り多い時間を過ごすことができました。そして入社して5年間でブランドビジネスについて、全てではないまでも一通りのことは理解できたので、2010年に退社し、本格的に起業準備に入りました。
とにかく品質にこだわる
──起業する過程で大変だったことはなんですか?

事業計画の策定や資金調達など、実際の起業に必要な実務的な作業について把握することが大変だったと記憶しています。ただ、そこは人に聞いたり自分で試行錯誤したりする中で、少しずつ理解できるようになりました。資金は自分の貯金と友人からの出資、インキュベーション企業からの助成金などで賄いました。
またブランドの理念の追求とオペレーションの構築のバランスも非常に難しい課題でした。そもそものブランドの方向性として、「エチオピアの貧しくかわいそうな人たちが作ったから買ってください」というものづくりはしたくはありませんでした。仮にそういう理由で買ってもらったとしても、品質が低く使えない製品であれば、結局のところゴミになってしまいます。そうなるのが嫌で始めた事業なので、中途半端な製品ではなく、クオリティが高く、購入してくれた方に長く愛用してもらえる製品を作らなければならないと思いました。
しかし品質にこだわればこだわるほど、オペレーションが煩雑化しお金がかかります。いいものをつくらなければならないというプレッシャーと、一方でどんどん目減りする資金の狭間で、不安や葛藤もありました。ただそうした中でも、品質は妥協したくありませんでした。そのような葛藤とトライ&エラーの末に、2012年2月にandu ametを設立し、その後4月に国内販売開始までこぎつけることができたのです。

六本木ヒルズに出店していたandu ametの店舗(現在はそごう横浜店に常設)
24時間仕事
──現在はどのような働き方をしているのですか?
早朝から深夜まで自宅やオフィスで仕事をしています。寝ている間も、仕事の夢を見ていることもあるので、24時間働いているといってもいいかもしれないですね(笑)。エチオピアと日本を行ったり来たりの生活で、1年の半分くらいはエチオピアにいます。長い時で3、4カ月、短いときでも最低1カ月は滞在しています。
実は私が10代のときに考えていた憧れの働き方は、春夏を日本で過ごし、秋冬を南国で過ごすというものだったんです。というのも、私は極度の寒がりでして、冬より夏を好んでいるためです。しかし今は革製品の売れ行きがいい秋冬を日本で過ごして、その秋冬の販売を支えるための製品づくりをしようと、春夏をエチオピアで過ごしています。ただ日本の春夏の季節は、エチオピアではちょうど雨季にあたり、実はとても寒いのです。結局のところ、一年中寒い場所で過ごすということになっており、私が望んでいたのと正反対の働き方になってしまっているんです(笑)。なんとかそれを逆転させて、常に温かいところにいられる働き方を実現しようと考えてはいるんですが、難しいですね。
プロボノに助けられ
──鮫島さんのほかにスタッフはいるのですか?
いいえ、社員は私ひとりで、あとは15名ほどいるプロボノの方たちに手伝っていただいています。プロボノには、ファッション関係の仕事をしている人のほか、NPO職員、区役所職員、会計士、弁護士、メーカーに勤務する会社員など多種多様な業界・職種の人がいます。専門知識を活かしながら当社業務に取り組んでもらっているので、大変助かっています。各人の仕事の割り振りや問題があれば随時オンライン、オフライン・ミーティングを開くなど、彼らがより働きやすい環境を整えることも私の大事な仕事のひとつです。
私自身も起業する前は、白木夏子さんが立ち上げた日本で初めてのエシカルジュエリーブランド「HASUNA Co.,Ltd.」でプロボノを経験していました。起業する上でとても勉強になりましたし、ベンチャー企業が一歩ずつ成長していくのを自分のことのように体験できたり、本業だけでは知り合えない人と知り合えたりと得るものがとても多かったと実感しています。基本的に無償のボランティアで、本業との兼ね合いに悩まされることもありますが、今となってはプロボノを経験してすごく良かったと思いますし、ぜひ多くの方にお勧めしたい働き方ですね。
──決まった休みはあるのですか?
私自身は起業してこれまで、まともな休みを取ったことはないです。
──それがつらいとは感じないのですか?
睡眠不足の日が続くとつらいですが、仕事は楽しくておもしろいので苦にはなりません。そもそも私は、仕事はまず自分が楽しまないで誰が楽しむのだろうと思っています。そういう意味では、今は毎日楽しみながらやれているのでいい状態だと思います。
今後の課題
──ではワークライフバランスについてはあまり気にしていないのでしょうか。
いいえ、とても大事だと思います。私も今のこの生活をいつまでも続けられるとは思っていません。一番重要なのは健康管理なのですが、私の場合、日々仕事が山ほどあり、しかも楽しいのでついついのめり込んで、休まずに延々とやってしまうことが多々あります。親から1日のゲームのプレイ時間を決められていても、やめられない子どもと同じですね(笑)。
しかし事業の継続性を考えた時、今のままではいけないという危機感はもっています。大きな夢の実現のためには、10年20年先を見据えて現在の生活をコントロールしなくてはいけないので、体力的、精神的に長く健康であるために、うまくワークライフバランスを取っていくことが、今の私の最大の課題のひとつといえます。
世界一のファッションブランドに
──その夢とは?

今の夢はandu ametを世界に通用するラグジュアリー・ファッションブランドに育て上げることです。とはいえ、世界中のすべての人に好かれるブランドになりたいとは思っていません。私たちのコンセプトやフィロソフィー(哲学・思想)に共感してくれる人に、バッグを買ってもらいたい、本当にファッションが好きな人や本当にいいものを求め、長く愛用したいと思っている人に、憧れられるようなブランドになりたいと思っています。だからこそ、品質には妥協せず、徹底的にこだわり続けたいと考えています。
課題はサービス面の向上です。現在は直営店をもっているわけではなく、またお客様からの様々なご要望すべてに応えられていません。その点を今後は改善し、お客様との接点を多くもち、お客様に末永く愛される、一流のブランドにしていきたいと思っています。