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2014.08.04  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

養護学校での壁

──養護学校に復職後はどうでした?

現在では板書もお手の物。とても全盲とは思えない

いろいろと困難なことは多かったのですが、やはりいちばんたいへんだったのは、私が全盲であるということを知的障害をもつ生徒たちが理解できないことでした。これが大きな壁でしたね。やはりそういう子どもたちを指導するのは健常者の方が適任なので、その後いろいろと模索し、最終的には肢体不自由の生徒に国語の授業をするという形に落ち着きました。それでもやはり全盲で盲導犬を連れて養護学校で教えるのは難しかったので、埼玉県の教育委員会に普通中学校への異動を訴えました。

10年越しの念願成就

──教育委員会とはどのように交渉していたのですか?

私だけではなく、宮城先生やその他の先生たちも協力してくださり、団体として交渉していたのですが、なかなか聞き入れてもらえませんでした。10年間交渉しても埒が明かず、このままじゃ何にも変わらないからダメ元で議員の力を借りようと県議会議員会館に飛び込んだら話を聞いてくださった議員がいて、県議会で取り上げてくださったんです。

その議員は「全盲で盲導犬を連れた教師が片道2時間半かけて盲学校に通勤している。本人は普通中学校での勤務を希望しているのにこんなことがあっていいのか。知事はどうお考えですか?」と。すると、通常は教育長が答弁するんですが、知事が直接「それはいけない。何とかしましょう」と答弁してくださって。それからとんとん拍子でことは進み、知事が私の受け入れ先を募ったところ、当時の長瀞町の町長だった大澤芳夫さんがぜひ長瀞中学校にとすぐ手を挙げてくださって、2008年4月に長瀞中学校への着任が叶ったのです。県と交渉を始めてちょうど10年目。普通中学校への復帰は16年ぶりでした。


──大澤前長瀞町長はなぜすぐ受け入れを表明したのでしょうか。

以前、長瀞町で講演をしたことがあったのですが、ご夫婦で聞いてくださっていたようなんです。後で聞いた話では、周りの人たちから「そんなに即断していいのか。何かあったとき責任を取れるのか」などと詰め寄られたのですが、「私は直接新井さんの話を聞いたことがある。彼なら大丈夫だ」と説き伏せてくださったみたいなんですよね。そこまで言ってくださった大澤前町長には今でもとても感謝しています。周りの人は独断というかもしれないけど私や私を支えてくださった方々にとっては英断以外のなにものでもなかったからね。

気持ちが折れなかった理由

──それにしてもよく10年間も気持ちが折れなかったですね。

宮城先生たち、大勢の支えてくれた人々のおかげですよ。私一人だったらとっくに折れていました。その支えてくださった方々も段々と歳を取って退職者が増えてきて、なんとか自分たちが現役のうちに新井の普通学校への復職を実現させてやりたいと頑張ってくださった結果ですよ。私自身も50歳を超えたら普通中学校での仕事は体力的に無理だと思っていたので、なんとか40代のうちにと切羽詰まっていました。それだけに長瀞中学校への着任が決まったときは言葉にならないくらいにうれしかったですね。46歳、ギリギリのタイミングでしたから。

ただ一方で、それまでに10年間もかかってしまったということに忸怩たる思いもあります。それほど県の教育委員会をはじめ、教育の場ではノーマライゼーションはまだまだ浸透していない現実を身をもって痛感しました。


インタビュー後編はこちら

新井淑則(あらい よしのり)
1961年埼玉県生まれ。埼玉県長瀞町立長瀞中学校教師

大学卒業後、東秩父中学校に新任の国語教師として赴任。翌年、秩父第一中学に異動し音楽教師だった妻と知り合って結婚。初のクラス担任やサッカー部の顧問を務め、長女も生まれた絶頂期の28歳の時に突然、右目が網膜剥離を発症。手術と入院を繰り返すも右目を失明し、32歳のとき特別支援学校に異動。34歳のとき左目も失明し、3年間休職を余儀なくされる。一時は自殺を考えるほど絶望したが、リハビリを通して同じ境遇の人たちと出会ったことなどで前向きに。視覚障害をもつ高校教師との出会いを機に、教職への復帰を決意し、36歳のとき特別支援学校に復職。その後、普通学校への復帰を訴え続け、支援者のサポートもあり46歳で長瀞中学校に赴任。盲導犬を連れて教壇に立つ。2014年4月、52歳でクラス担任に復帰。全盲で中学校の担任を持つ教師は全国でも初。著書に『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる』(マガジンハウス)』がある。

初出日:2014.08.04 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの