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2017.10.30  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

絶望の高校時代

──ここからは安田さんがなぜキズキを立ち上げて、現在の活動をするに至ったのか、これまでの歩みを詳しく聞かせてください。子どもの頃は複雑な家庭環境だったということですがどんな感じだったのですか?

高校時代の不良の下っ端だった安田さん(安田さん提供)

高校時代の不良の下っ端だった安田さん(安田さん提供)

小学生の頃、父は外に子どもを作り帰ってこなくなりました。母も精神がおかしくなり、帰ってこない日が続きました。ちなみに僕の父親は知っている限りで事実婚含め4回結婚をしています。そんな環境だったので、早く家を出たくて猛勉強し、中学は寮のある学校へ特待生で入学しました。でも管理がすごく厳しくて2年生の時に退学し、寮を出た後は、父が面倒を見れないということで祖母の家で暮らすことになって。その後、父の再婚相手と生活した時期もあったのですが、馬が合わず家に帰らなくなりました。

中学に入ってからは全然勉強しなかったので、高校は神奈川県内の偏差値40台の高校にしか入れませんでした。高校でも勉強する意味が見出せず、全然勉強しなかったので、成績はビリ。中退者も多く、次第に生徒数が減っていきました。


──勉強しないで毎日何をしてたんですか?

毎日夜遊びしてました。といっても駅前やコンビニの前で夜中ずっとたむろって、朝帰るという感じだったんですが。あとはお金がなかったのでアルバイトをして生活費や遊ぶ金を稼いでいました。そのお金も、一部は暴走族へのカンパ(上納金)で消えました。不良の下っ端、みたいな感じでした。

絶望の人生を変えるなら今しかない

──当時はどんなことを考えていたのですか?

高3の頃には、潮目が変わるのを感じました。高校時代はちょっと不良っぽい方がかっこいいし女子にもモテたけれど、大人になったらちゃんと大学を出ていい会社に勤めているというマジメな人たちが社会の中心になっていくということがわかってきました。

さらに僕は単純作業を続けることができなくて、アルバイトもだいたい3ヵ月で飽きて辞めてを7回くらい繰り返していたんですね。継続的に仕事できないのはヤバい、このままでは社会に出て生きていけないと危機感を抱いていました。

安田祐輔-近影1

そして、どうしてこうなっちゃったんだろうとこれまでの人生を振り返りました。その一番大きな理由は、家庭環境のせいだなと思ったんです。小学校の時に両親が不仲で家を出て、祖母とも継母とも合わなくて居場所がなくなったから、勉強もしなくなり、不良の下っ端になってしまった。このままダラダラとその日暮らしの努力しない人生を送ると、このつらい日々が死ぬまで永遠に続く。それは絶対に耐えられない。変えるなら今しかない。ここで一発努力して自分の人生を変えたいと強烈に思ったんです。そのためには大学に入るしかないと思いました。

同時に、まずは社会のことを知ろうとニュースや新聞を見るようになりました。ある時、テレビのニュースでアフガニスタンの空爆のシーンを見た時にすごくシンパシーを覚え、何とかしたいなと思いました。アメリカに空爆されて自分ではどうにもならない中で生きているアフガニスタンの人たちの境遇が、自分ではどうにもならない家庭環境に翻弄されて苦しい状況に陥っていた僕の人生と重なったんです。それでアフガニスタンの人々を助ける仕事に就きたい、そのために大学に入りたいと思いました。つまり、今の自分を変えたいという思いと、やりたい職業に就くためという2つの理由で大学受験を決意したわけです。

そして、紛争を止めるような仕事はどんな団体に入ればできるだろうと調べたところ、国連が最もその可能性が高いことがわかりました。その国連の職員の出身校は東京大学とICU(国際基督教大学)が多かったので、この2校を目指し、高3の終わり、偏差値30から1日13時間の猛勉強を始めたんです。

崖っぷち感で大学合格

──それまで全然勉強してなかったのによく13時間も勉強できましたね。

安田祐輔-近影2

とにかく自分の納得することで自立するためには大学に行くしかないと切羽詰まってたので。さっきもお話しましたが、アルバイトで食っていくのはできないとわかっていたので、とにかく大学に入らなければ生きていけないなと。もうここを逃したら人生終わりという崖っぷち感ですね。

あと、僕のような家庭環境に生まれると、生まれてきた意味はなんだろうとか考えちゃうんですよ。自分の人生が特別うまくいかなくて強いコンプレックスがあると、そのコンプレックスを払拭するような何かがほしいというのがすごくある。自分の生きてる意味はなんだろう、生きててよかったと思えるものがほしいという思いが原動力としてあったのかなと。

また、僕は中高6年間ずっと勉強してこなかったのですが、勉強ってすればするほど1ヵ月前の自分と今の自分で変化が確実に現れるじゃないですか。学べば学ぶほど明らかに成績が上がるのがうれしかった。それで13時間も勉強できたんです。

2浪目の夏頃には東大模試でB判定が出ていけると思ったんですが、その後はさすがに息切れして、机の前に座るけど参考書を読んでも頭に入ってこないという状況になっちゃって。成績もどんどん下降して苦労しました。

それでも運よくICU(国際基督教大学)だけは合格できたんです。ICUの試験は4つのうち2つが学術論文を読んで問題に答えるという試験で、偶然、僕がよく読む学者が引用されていたので問題が解きやすかった。これは勝ったと思いましたね。


──合格した時はどういう気持ちでしたか?

そりゃあものすごくうれしかったですよ。いまだにはっきりと覚えているのですが、これで俺の人生、なんとかなるかなとほっとしました。入学式の時なんかも忘れられないですよね。これよりうれしいことなんて、これまでの人生、後にも先にもないです。もし全部落ちていたら受験をあきらめていたでしょうし、キズキも立ち上げてなかったでしょうね。僕の人生が変わった大きなターニングポイントの1つです。

最初のターニングポイント

──大学入学後は?

イスラエル人とパレスチナ人を日本に招いて平和会議を開催(安田さん提供)

イスラエル人とパレスチナ人を日本に招いて平和会議を開催(安田さん提供)

先輩が作ったイスラエル人・パレスチナ人を招致して平和会議を行うサークルに入りました。元々大学を受験しようと思ったきっかけの1つがアフガニスタンの空爆だったので、中東の問題に寄与、貢献したいという思いをずっともっていたので。

現地ではイスラエル人とパレスチナ人が交じり合うことがないので、お互い憎しみ殺し合ってしまう。だから、パレスチナ人とイスラエル人を6人ずつ日本に招いて、平和会議を開催しました。1ヶ月間合宿していろんなことを議論したら、お互い少しでも理解し合えて仲よくなるんじゃないかというのが狙いでした。

合宿では、お互いに言いたいことを言い合って、ケンカになったりもしたのですが、最後、成田空港でお別れする時はみんな大泣きして抱き合っていました。その光景を見て、自分が動いたことで社会を少しだけど変えられたという実感を得られました。これがすごくよかった。後の活動につながる1つの大きな原体験となったんです。

二十歳くらいまでは家族にも社会にも全く必要とされていなかったから、生きている意味がないとすら思っていた。それがこの経験を通じて、家族から必要とされてなくても、社会や世界から必要とされる人間になりたい、それが僕の生きる意味だなと思ったんです。これからもっともっと頑張らなきゃな、成長しなきゃなと思いました。

安田祐輔(やすだ・ゆうすけ)

安田祐輔(やすだ・ゆうすけ)
1983年神奈川県生まれ。キズキ代表

藤沢市の高校を卒業後、二浪してICU(国際基督教大学)教養学部国際関係学科入学。在学中にイスラエル人とパレスチナ人を招いて平和会議を主催。長期休みのたびにバングラデシュに通い、娼婦や貧困層の人々と交流を重ねることで、人間の尊厳を守る職に就きたいと決意。卒業後は商社に4ヵ月勤務したがうつ病で退職。1年のひきこもり生活を経て、2011年キズキを設立。代表として不登校・高校中退経験者を対象とした大学受験塾の運営、大手専門学校グループと提携した中退予防事業などを行なっている。

初出日:2017.10.30 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの