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2017.10.02  取材・文/山下久猛 撮影/林景沢(スタジオアップル)

東日本大震災を機に西へ

──3.11の東日本大震災を機に鎌倉での生活が終わりを告げたとのことですが、やはり原発事故がその理由ですか?

丹羽順子-近影1

はい。でも実は、私の方はそれほど深刻には受け止めていなかったんですよ。でも娘の父親が「君がどうするかは自由だけど、僕は子どもを連れて海外に行く」と言い始めたんです。その頃は仕事も順調で、せっかくいろいろやってきたことが実を結び始めたタイミングだったので、正直悩みました。でも彼に「将来子どもに何かあったときに後悔しない?」と言われた時、やはり日本を出るべきだと思ったんです。鎌倉の居心地があまりにもよすぎたので、出ることなんて考えてなかったんですけど、一気に考えが変わりましたね。


──そこからいきなり海外へ行かれたのですか?

いえ。当時ラジオのパーソナリティの仕事もしていたので、私はすぐに日本を離れるわけにはいかなかったんです。まず震災の3日後に家族一緒に車で家を出て、西の方へ向かいました。名古屋、大阪、京都など逃避行のように転々としていたのですが、その間、私だけ毎週東京のスタジオに通ったり、東北の被災地へ支援に行ったりしていました。最終的には香川に落ち着くことになり、きりがいいタイミングでラジオの仕事を辞めたんです。


──香川を拠点にしたのはどうしてですか?

「私たちはいいけど、原発の被害を受ける福島の人たちはどうなるのか」と思ったんです。福島の人たちをどこかに呼び寄せられないかと思いつき、twitterで「誰か家を貸してくれる人はいませんか?」と呼びかけました。そうしたら「うちの実家が空いてるので使ってください」と言ってくれた人がいて、その場所が香川だったんです。そして福島に住んでいた5家族を呼び寄せて、一緒に私たちも半年ほど住まわせてもらうことにしました。家主はその当時全くの見ず知らずの人だったんですけど、あのときは「助け合い」や「絆」という流れが強かったですから。ある程度落ち着いたら彼らは福島へ帰り、私たちは日本を出たというわけです。


──どの国へ行ったのですか?

丹羽順子-近影2

タイです。彼が仕事でよくタイに通っていて、タイ語を話せたので、「とりあえず行ってみようか」くらいの感じでした。


──国内ならまだしも、海外に出るということはクライアントや仕事のつながりを全部切るということですよね。これまで積み上げてきたものを捨てるというか。そこに不安や葛藤はなかったんですか?

なかったかなあ。当時は若かったので(笑)、過去のものを大切にするよりも次、新しい場所に行きたいという気持ちが大きかったですね。根拠のない自信があって、たぶん後で痛い目にあうだろうけど、何とかなるだろう、みたいな(笑)。

あとは、自分の中に入っていって考えて、自分の人生で何が一番大事かを考えた時、娘の健康だったり、自分のやりがいだったり、Wellbeingだった。そう思うと、あんまり贅沢も言ってられないから、ちょっと収入が下がるけど海外へ行こうと。そこの直感に従わないと絶対あとで後悔するからっていうのがあったんですよね。また今の時代、ネットがつながる環境なら世界中どこにいても仕事はできますからね。

丹羽順子(にわ じゅんこ)

丹羽順子(にわ じゅんこ)
1973年神奈川県生まれ。平和環境活動家

慶應義塾大学卒業後、NHKに入社。報道記者として3年間勤務した後、退職。日本映画学校で講師をしつつ、ドキュメンタリー映像制作にも携わる。2003年、イギリスのミドルセックス大学院に1年間留学。持続可能な開発とリーダーシップコース修了。帰国後、フリーランスのサスティナビリティー活動家としてドキュメンタリー制作やイベントMC、各種講師など様々な分野に携わる。2006年、長女を出産。鎌倉を持続可能にするNPOかまわなどで地域活動を展開ほか、オシャレな古着の交換会xChangeを主催。J-WAVEのLOHAS SUNDAYのナビゲーターも務める。2011年、東日本大震災を機に家族で鎌倉を離れ、西日本を放浪後、香川で半年間ほど暮らす。2012年、タイに移住し1年半ほどの自給自足生活を送る。その後、娘とコスタリカへ移住。現在は10歳になる娘と愛犬チョコ、フランス人のパートナーとともに大自然に囲まれた場所に暮らし、自身の心、みんなの心に平和の芽を育てる活動を続けている。著書に『小さいことは美しい』(扶桑社)、『深い愛に気づく女性のためのヒーリング』(ブルーロータス・パブリッシング)などがある。

初出日:2017.10.02 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの

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